御堂関白記
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
『御堂関白記』は、平安時代の権力者、藤原道長が著した日記です。
現存する世界最古の自筆日記として知られています。
2年前、NHKの大河ドラマで放送された藤原道長のことを覚えているでしょうか。
テレビでは紫式部との恋愛にかなり重点を置いていたようですね。
しかしあれはほとんどがドラマのための脚色です。
事実とはかなり異なっています。
しかし彼が政権を奪った後の暗躍は、そのまま示されていました。
藤原兼家の3男に生まれた道長が摂関政治の頂点に上ったのは、本当に偶然の出来事が続いたからなのです。
本来ならば、高級貴族ではいられたでしょうが、わかりやすくいえば部屋住みの立場でした。
一生暮らしに困ることはなかったでしょう。
それだけに熱心に学問をした形跡もありません。
事実、道長の書いた文章には文法や漢字の誤りがたくさんあります。

たいした仕事をしなくても、貴族社会の中でそれなりに生きていけたはずです。
それが兄、道隆、道兼の病死や、道隆の子、隆家、伊周の相次ぐ失脚によって、権力が目の前に転がり込んできたのです。
最初のうちは彼のことを侮っていた貴族たちも、やがてその権力基盤の中に組み込まれていきます。
天皇を上手に裏で操つりながら、その陰に隠れて権力基盤を強固なものにしていったのです。
そのためにどんな手段を使ったのか。
それが生々しく書いてあるのが、『御堂関白記』なのです。
権力の中枢にいた人間が、長い間にわたって自ら日記を書いたなどという例は大変に珍しいです。
同時代を代表する歴史書、『権記』『小右記』とさらに『紫式部日記』などと重ね合わせていくと、1000年前の宮廷に起こった事実が目の前に浮き上がってきます。
ユニークな遺産
世界を見渡しても、ここまで詳細に長い期間を通して、最高権力者が自分の周囲に起こったことを記録した日記はありません。
そういう意味では実にユニークな遺産なのです。
現在は国宝に指定されています。
幸いに実物を見ることもできます。
藤原道長といえば、歴史物語『大鏡』の中にかなりその横顔が描かれていますね。
紫式部が仕えた一条天皇の中宮彰子の父親としても知られています。
摂関政治の頂点に君臨した人なのです。
実際に自分の目でこの日記をみたいと思ったら、京都文化博物館などの特別展を狙うのがいいのではないでしょうか。
過去には、国立博物館などで展示されたこともあります。
1000年も前の細かな日常を綴った日記を見るなどというチャンスは滅多にあるものではありません。
ぜひ、機会があったらチャレンジしてみてください。
この日記は道長が33歳だった長徳4年(998年)から56歳にあたる寛仁4年(1020年)頃までの記録です。

タイトルは『関白記』となっていますが、道長自身が関白に就任したという事実はありません。
関白になってしまうと、行動が規制されることから、自由な立場を選んだようです。
彼が晩年に建立した寺院「法成寺」が「御堂」と呼ばれていたことから、後世に『御堂関白記』という通称が定着しました。
幸いなことに、現在は文庫本で読めます。
これが実に面白いのです。
一度、その内容に触れてみてはどうでしょうか。
等身大の道長は実に人間臭い人です。
自信に満ちた言葉があるかと思えば、愚痴や不安もたくさん書かれています。
涙もろい一面などもあり、漢文の文法ミスなども随所に見られます。
出世が偶然の重なりに彩られているだけに、怨みも相当にあったものと思われます。
『大鏡』に描かれた道長は、恰好のいい豪胆な男ですが、実際はかなりの怖がりでもあり、気の弱いところも多々ありました。
怨みともののけ
『御堂関白記』(角川ソフィア文庫)を読んでいると、実に面白いコラムに出っくわします。
「もののけ」に関する記述などもそのひとつです。
科学の発達した現代でも、人間の魂などについての研究はされていますね。
「もののけ姫」という映画の存在を知らない人はいません。
理性では計り知れないものなのです。
今でもけっして侮ることはできません。
まして1000年前です。
多くの疫病や災難が日常的に降りかかってきたことは、容易に想像がつきます。
政敵の住む館に、物の怪と称して火を放つという行為などもありました。
もちろん、道長に対する暗殺などということも、まことしやかに計画されたようです。
コラムの一部をご紹介しましょう。
王朝時代というのは、ある一面において「もののけ」と総称される厄介な存在の時代でもあったわけだが、しかし、藤原道長の『御堂関白記』には、「もののけけと呼ばれるものに関する記事がほとんどみられない。

御堂関白道長は、「もののけ」の絡むできごとを、その日記にほとんど記録しなかったのである。
とはいえ、道長の身近なところに「もののけ」が出没しなかったわけではない。
道長が「もののけ」と無関係だったわけではないのである。
いや、それどころか、藤原行成の『権記』によると、道長には「もののけ」に憑かれた女性と取っ組み合った経験があったうえに、自身が「もののけ」に憑かれて異常な振る舞いを見せた経験さえあったらしい。
長保2年(1000)12月16日の『権記』が伝えるところによれば、その日、病に臥す姉の東三条院藤原詮子(あきこ)を見舞った道長は、突如として詮子に仕える女房の1人に掴みかかられたのであった。
その女房は、詮子に病苦を与える「邪霊」に憑かれて道長に襲いかかったようなのである。
そしてそんな目にあった道長には、「甚だ怖ぢ畏れ給ふの気(ひどく怖れ怯える様子)が見られたという。
その一方で、これに先立つ同年5月25日の『権記』は、道長自身が「邪気」もしくは「霊気」に憑かれて「怒るは非常なり」と評されるほどに憤激したことを記録している。
その折の道長の表情は、具体的には「目を怒らせて口をはる(目を吊り上げて歯を食いしばる)というものだったようなのだが、行成の言うところ、ここで道長に憑いた「もののけ」の正体は道長との政争に敗れて悲嘆のうちに若くして世を去った藤原伊周(これちか)であった。
またこれより数日をさかのぼる『権記』も道長が「二条殿の御霊」に憑かれて奇妙な言動をとるに及んだことを伝えるが、ここに「二条殿」と呼ばれているのは、道長の同母兄にして、道長の前任の政権担当者であった藤原道兼に他ならない。
当時の貴族社会の人びとが理解していたところ、道兼が不意に病没したことによって、いわゆる「棚ぼた」の要領で権力を握ることになった道長は、当然のこととして、道兼の亡霊に悩まされざるを得ない立場にあったわけである。
道長の『御堂関白記』は道長が直接に関わった「もののけ」の絡む事件を、すっかりなかったことにしてしまっているのである。
そしてこの事実はそれだけ、道長が怖がっていたことを示しているのではないだろうか。
彰子に親王を
この本を読んでいると、可哀そうでならないのが、一条天皇の中宮であった定子の産んだ男の子、敦康親王の存在です。
彼こそが悲劇の親王なのです。
唯一の男子として道長も最初は後継者になるべき人として遇してはいたものの、腹の中では自分の娘、彰子に男子が生まれることを念じ続けていました。
そのために、42歳の時、道長は吉野の金峯山寺を詣でます。
日記を読むと、9月の長雨の頃だったらしく、毎日雨の中を歩いています。
どんなことをしても男子を生んでもらわなければと念じ続けたのでしょう。

権力基盤を確実なものにするには、天皇の外祖父になることが至上命題だったのです。
あまり豪勢なところに泊まることもなく、ひたすら男子の誕生を祈り続ける者として行動しています。
やがて彰子は男子を生みました。
敦成(あつひら)親王がその人です。
一条天皇の第2皇子にあたります。
三条天皇の譲位を受けて9歳で即位しました。
眼の悪かった三条天皇にむりやり譲位を迫る道長の迫力は、権力の持つ非情な横顔そのものかもしれません。
定子の産んだ敦康親王は1018年、にわかに発病し出家の後、20歳で亡くなりました。
後見人のいない子供にとって、宮廷の勢力図の中で生き残ることの難しさがよくわかります。
読み始めるとやめられなくなります。
ぜひ、あなたもこの機会に手にとってみてはいかがでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
