【方丈記・飢饉】地震と火事に襲われた歴史を生々しく綴った名随筆

養和の大飢饉

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『方丈記』読みましょう。

この作品は鴨長明による鎌倉時代の代表的な著作です。

日本の中世文学になくてはならない『徒然草』『枕草子』とならぶ随筆なのです。

その中で長明は、都の火災、竜巻、その後の福原遷都、養和の飢饉、大地震などを書き残しています。

まさに歴史の生き証人でもありました。

自らが経験した天変地異に関する記述は歴史史料としても意味を持っています。

今回扱う養和の飢饉は、養和元年(1181年)に発生した大飢饉です。

源氏・平氏による争乱期の最中に発生した飢饉でした。

特に『方丈記』の記録は資料として貴重な役割を担っているのです。

前年の1180年は極端に降水量が少ない年でした。

旱魃により農産物の収穫量が激減したのです。

予想通り、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥りました。

大量の餓死者が発生し、農民は土地を捨てて、逃げていきました。

混乱が全国的に波及したのです。

『方丈記』では京都市中の死者を4万2300人と記しています。

こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまいました。

その一方で源頼朝は、年貢納入を条件にすることで、朝廷に東国支配権を認めさせたのです。

鴨長明の『方丈記』の中でも災害をまとめた部分には迫力があります。

今でいえばルポルタージュに近いものといえるかもしれません。

原文を読んでみましょう。

原文

また、養和の頃とか、久しくなりておぼえず。

二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。

あるいは春、夏ひでり、あるいは秋大風、洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとく生らず。

むなしく春返し、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、あるいは地を捨てて境を出で、あるいは家を忘れて山に住む。

さまざまの御祈り始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにその験なし。

京の慣らひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上がるものなければ、さのみやは操も作りあへん。

念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。

たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。

乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり。

前の年、かくのごとくからうじて暮れぬ。

明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うち添ひて、まさざまに、跡形なし。

世人皆けいしぬれば、日を経つつ窮まりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。

果てには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。

かくわびしれたる者どもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。

築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者たぐひ、数も知らず。

取り捨つるわざも知らねば、臭き香世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。

kareni / Pixabay

いはむや、河原などには、馬・草の行き交う道だになし。

あやしき賤・山賤も力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、みづからが家を毀ちて、市に出でて売る。

一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。

あやしきことは、薪の中に、赤い丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひ交じはりけるを尋ぬれば、すべき方なき者、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。

濁悪世にしも生まれ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

現代語訳

また、養和年間の間頃であっただろうか、長い年月を経てしまったのではっきり思い出せません。

二年間、世間では飢餓で食糧が欠乏して、何とも言いようのないひどい事態がありました。

ある場合は、春、夏の間は旱魃、ある時は大風、洪水などと、不幸なことがいろいろ続いて、穀物も全く実りません。

むなしく春に耕し、夏に植えるという骨折りだけがあって、秋に刈り取り、冬に倉へ納めるというにぎわいはないのです。

このために、国々の民衆は、ある者は土地を捨てて国境を越え、ある者は家を捨てて山に住みました。

朝廷ではいろいろの祈禱が始まり、なみひととおりでない特別の修法も行われましたが、全然その効果はありません。

京の都の習慣として、何事につけても、生活の根源はみな田舎を頼りにしているのに、全く田舎から京の都へ上ってくる食物がないので、都の人々もそんなふうに体裁をつくろってばかりいられるでしょうか。

我慢しきれず、いろいろな財物を片っ端から捨て売りするようにするのですが、その財物に目をとめる人も全然いないのです。

たまたま交換する人があると、金銀財宝を軽くみて、穀物の価値のほうを重く考える始末です。

乞食が、道端に多くおり、嘆き悲しむ声が、あたり一面に満ちていました。

前年は、このようにしてやっとのことで年が暮れました。

翌年は平常の状態に立ち直るだろうかと思っていましたが、それどころかそのうえに悪性の流行病まで加わって、惨状は更にひどく、立ち直る兆候は少しもありません。

世の人はみな飢えてしまったので、日が経つにつれてその惨状が窮まっていく様子は、「少水の魚」のたとえそのままです。

ついには、笠をかぶり、足を布で包んで、相当の身なりをした者が、懸命に家から家へと物乞いをして、歩いて回ります。

このように生活に困窮し待てた者たちは、歩いているかと見ていると、たちまち倒れ伏してしまいます。

土塀の前や、道ばたに、餓死する者の類は、数知れません。

死骸を片づける方法もわからないので、臭気があたり一面に満ち満ちて、腐敗して崩れ替わっていく顔や身体の様子は、まともに見ることもできないことが多いのです。

まして、鴨川の河原などでは、死骸が一面に散乱しており馬や車の行き交う道さえもないほどです。

身分の低い卑しい者や木こりも体力が尽きて、薪までが欠乏してきたので、生計のあてにする方法がない人は、自分の家を壊して、市場に出て売っています。

ところが、一人が持ってきた薪の値段が、一日の命をつなぐ穀物の代金にさえ及ばないということです。

不思議なことは、売られている薪の中に、赤色の塗料が着き、金箔や銀箔などが所々に見える木があることです。

混じっていた訳を調べてみると、どうにも生きる手段の尽きた者が、古寺に行って仏像を盗み、お堂の仏具を壊し取って、割り砕いたのでした。

種々の汚れや罪悪に満ちあふれた末法の世にちょうど生まれ合わせて、このような情けないしわざを見たことでした。

羅生門

赤い丹のついた木の端を売ってしまうという話は芥川龍之介『羅生門』に出てきます。

その部分をここに再録してみましょう。

「旧記によると、仏像や仏具を打ち砕いてその丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、道ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたということである」

「旧記」とここに示されているのが、まさに『方丈記』そのものなのです。

飢饉の時の記述は今読んでもぞっとします。

人々の心が荒れ、村を離れてどこへ向かったのでしょうか。

難民として生きていくしかありません。

その先に平安が待っているとはとても思えないのです。

コロナ禍で苦しんでいるインドの人々の様子をご覧になりましたか。

公園で火葬をし、そのまま埋められていくのです。

現代も過去も、人が生きるということはあまりにも苛酷です。

疫病が流行した話などを読むと、今と変わらないですね。

『方丈記』が残したルポは、けっして古びた過去の話ではありません。

800年以上も前の人々と少しも違いはないのです。

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そのことにあらためて強い衝撃を覚えます。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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