【教育格差】少子化の問題をつきつめると日本はどこへいくのか予測不能

学び

少子化

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は小論文の重要なテーマの1つを考えてみます。

ずばり、少子化です。

今日の日本が抱えている大きな問題なのです。

高齢者が増える一方で、出生者数が全く伸びません。

昨年の「合計特殊出生率」は1.20でした。

これは1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標です。

この統計を取り始めて以降、最も低い数値でした。

毎年、数字が前の年を下回っています。

最も低かったのは、首都、東京です。

0.99と1を下回りました。

2023年の1年間に生まれた日本人の子どもの数は72万7277人で、これも統計を取り始めて以来、最低なのです。

今や、この問題は日本全体にとって喫緊の課題といっていいでしょう。

今年の大学入試においても、数校で出題されるに違いありません。

なぜこれほどに少子化が進んでしまったのか。

理由はさまざまに議論されています。

その1つが女性の社会進出や価値観の多様化によるものです。

男女雇用機会均等法が成立したのが1985年でした。

女性の社会進出が進む一方で、子育て支援体制が十分でないことなどから、仕事との両立に難しさのあることが判明したのです。

その他、子育てには予想以上の費用がかかることもわかってきました。

仕事を離れてしまうと、本来手に入るはずの所得が失われることも、想像以上のものだったのです。

背景には、子育てにともなう教育費用の問題が絡んでいるのです。

そこまで苦労して、子育てをしなければならないのかと考える人がいるのも当然です。

結婚や家族に対する価値観が変化していることなども、未婚化、晩婚化につながっています。

実際に昨年の婚姻件数は2023年は47万組で、2022年より3万組も少なかったのです。

この数字も戦後最低です。

つまり結婚もせず、子どもも生まないという人が、明らかに増加しているのです。

教育費負担

少子化問題が教育費の負担と密接につながっているのは、明白です。

この問題に関係する文章を簡潔に引用してみましょう。

出典は財政社会学者、井出栄策氏の『財政から読みとく日本社会』です

ポイントを抜き書きします。

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日本人は昔から教育に熱心な国民だと言われてきました。

実際、幼稚園や保育所などの「就学前教育」を受けている人の割合はOECDの平均を上まわっていますし、大学を卒業している人の割合もOECDで最高レベルです。

これらのことから、日本の教育水準は過去も現在も高いのです。

日本人の多くは、教育に対して少なからぬ関心をもっていることが予想されます。

ところが不思議なことに、日本の政府がおこなっている教育支出は、先進国のなかで最低水準なのです。

大学に行くための費用の6割以上が政府ではなく、各家庭の負担であり、この割合はOECD加盟国のなかで韓国についで2番目に大きな数値となっています。

一方、小、中はもちろん、高校の授業料も無償に近くなっている事実もあります。

しかし子どもの教育には、この他、塾や習いごとなどの学校外教育費がかかっています。

1990年代の半ば頃から、1世帯あたりの所得がはっきり落ち込んで行くなか、重い教育費に苦しむ大人たちは、経済的な負担を理由に子どもをもつことをあきらめ始めています。

コインの裏表

子どもの高い教育水準が保たれていることと、それを達成するために子どもの数が減らされていることは、同じコインの裏表なのです。

教育にかかるお金をみんなで負担しあう社会ではなく、自己責任でなんとかする社会は、当たり前のことですが、「所得の格差」が「教育のチャンスの格差」を生んでしまいます。

両親がどれくらいお金持ちかによって、子どもたちの大学への進学率にあきらかな差があることがわかります。

所得の格差は、進学だけでなく、はたらくことにも影響をあたえます。

1990年代の前半の有効求人倍率を見てみますと、中卒、高卒、大卒の順番に倍率が高かったのですが、この順番が2000年代にはいって逆転してしまいました。

つまり貧しい家庭に生まれた子供たちは、中卒ではたらこうとしても働くチャンスすら奪われてしまうのです。

「はたらくことは僕たちの義務だ」という考え方があります。

これを少しむつかしくいいますと、「労働倫理」と呼びますが、残念なことに統計的にみると、所得の低い若者ほど、この労働倫理が失われていくことがわかっています。

それだけではありません。

労働倫理の低い人たちは、人生が「運やチャンスで決まる」と考えがちだということも知られています。

もし努力してもむくわれないとすれば、みなさんはそんな社会に怒りを感じないでしょうか。

自分の努力がむくわれない社会で、競争の勝者に対して、相手の勝利を心からよろこぶことができるでしょうか。

家事も通学もせず、仕事についていない若者の比率が1990年代の後半から長期的に増大しています。

それも不公正に対する無言の抵抗なのかもしれないのです。

設問

この文章の後には、次のような設問が2つ用意されています。

設問1 本文の内容を400字で要約しなさい。

設問2 本文で述べられた教育に関わる格差の問題を踏まえた上で、日本の公的な教育支出のあり方、財源とのバランス、さらに社会に広く受け入れられるための方策などについて、あなたの考えを800字で書きなさい。

設問1については内容をよくチェックしていけば、なんとか纏められると思います。

しかし設問2はなかなかの難問ですね。

教育格差のテーマを受けて、①日本の公的な教育支出のあり方、②財源とのバランス、③社会に広く受け入れられるための方策を論点として書き込まなければなりません。

どこに視点をおいたらいいのかを考えてみましょう。

論点の基本は、親の所得格差が子どもの教育機会に直結しているということです。

最初に考えるべきことは、学びたい人にどのようにしたら機会を与えられるかということです。

親の自己責任という論理から抜け出て、社会が子どもを支えるという基本をどう貫くかという課題です。

そのための基本は財源の確保につきます。

結局は社会全体の利益につながるという事実をきちんと論じなければなりません。

方策としては➀貸与型や無利子の奨学金を増やす、②公共事業を削減し支援金に回すなどが最初に思い浮かびます。

その他、予算の組み換えを行うにあたり、教育が国力の根幹を支えるというコンセンサスを強力に推進する必要があると考えられます。

給付型の奨学金を増やせば、それで全てが解決するわけではありません。

むしろ日本人の教育観を変えていかなければ、根本的な解決には至らないというレベルに近いのです。

もちろん、学校の現場に対する支援も必要です。

塾に通えない生徒をどこかで掬い取るという意味で、補習のためのスタッフを確保することなども必要となります。

この問題は最終的に必ず財政の問題につきあたります。

難問であることは間違いありません。

意識の問題

もう少し今の問題を深掘りしてみましょう。

近年、政府は教育や子育てへの支援施策をいくつも打ち出していますね。

「保育料無償化」などから始まり、高等学校等就学支援金の制度が改正されました。

私立高校の授業料が実質無償化となったことで、公立と私立のせめぎあいも続いています。

さらに給付型奨学金の制度に関する基準が大きく緩和されました。

しかしこうした施策だけで改善しきれるのかどうか、ということが問題なのです。

日本や韓国には、大学などの高等教育費に関して「保護者が負担すべきだ」という考え方がいまだに根強く残っています。

高等教育を受けていない人や子どもがいない人にとって、高等教育費を税金でまかなうのは不公平だという声も少なくありません。

スウェーデンなどの国では、大学の学費が完全無償化されていると聞くだけで、全く異質な世界観を感じます。

日本では高等教育費の無償化を実現するということが、予想以上に難しいという事実を冷静に見つめなければなりません。

社会的なコンセンサスを得ることがいかに難しいかということを、あらためて考えなければなりません。

これは教育費のあり方の問題だけではないのです。

国民の意識を根本から変革しなければならない難問です。

その難しさを想像するだけで、気が遠くなりますね。

1度このテーマで、800字程度の文章を書いてみてください。

いかに複雑な要素を孕んでいるのかが、わかります。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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