エッセイを読む
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。
先日ある女性のエッセイを読みました。
暇な時には随筆に限ります。
本人は何気なく書いているんでしょうけど、やはり言葉の持つ魂が宿っているのです。
その人の持つ感覚が鮮やかに見て取れます。
そこにたまたま滝が好きだという話が載っていたのです。
豪壮な水の群れが一気に滝壺に向かって砕け散る風景がたまらなく美しいというのです。
なるほど、そう言われてみれば、そんな気がしないでもありません。
かつて両親がナイアガラの滝の前で撮った写真を今でも時たま見ることがあります。
黄色い合羽を着込んで滝の勢いに気圧されながら、それでも微笑んでいる姿は誠にいいものです。
ぼくも日本の各地で随分と滝を見てきたような気がします。
しかしあまりこれといって記憶に残っているものはありませんね。
日本にそれほど大きな滝はないのです。
ぼくの経験でいえば、壮大なのはやはり日光の華厳の滝でしょうか。
あれは流水の量を調節できるのだと聞きました。
何度か見てはいますが、確かにその度に水の量が違っています。
家族みんなで遊びにいった時の写真が1番いい顔をしている気がしますね。
もう随分と昔の話です。
高校時代の合宿でも、華厳の滝の前で写真を撮りました。
小学校の修学旅行の時もあそこで撮りました。
やはり1番絵になる滝といえるのかもしれません。
個人的には竜頭の滝の方がなんとなく風情があって好きです。
茶屋の前に大きな植木鉢があり、そこにナスタチュウムの花が咲き誇っていました。
その時の風景がなぜか忘れられません。
世界の滝
滝といえば、やはり世界に目を向けなくてはならないでしょう。
かつて、アフリカのザンビアへ旅行した時、6時間近くマイクロパスに揺られてザンベジ川のほとりまで行ったことがありました。
川が国境線になっているのです。
この巨大な川はザンビアとジンバブエの境を流れ、モザンビークを通ってインド洋にまで注いでいます。
途中にある滝が世界三大瀑布の一つ、ヴィクトリア滝です。
はじめて見た時には本当に驚きました。
日本にはない風景です。
スケールが大きいというだけではない、自然の造形を感じましたね。
はるかに離れた細い道を歩いているだけで、びしょびしょになってしまいます。
水量はそれほど多くない季節でしたが、それでも迫力がありました。
こういう場所も世界にはあるのだなというのが、その時の感想です。
近くにあったおみやげを売る掘っ立て小屋で、カバの彫刻を買いました。
堅い木に掘ったもので、日本で買ったらいったいいくらするのかというようなものです。
値段はたったの500円でした。
彼らにしてみれば、その10倍ではきかない値打ちをもっているのです。
世界は広くて本当に多様です。
今も本棚の隅にちょこんとのっています。
黒檀とか紫檀と呼ばれる木です。
まさかその後にホンモノのカバが水浴びをしている風景を見ることになるとは想像もしていませんでした。
水の東西
授業で山崎正和の「水の東西」という評論を何度も扱いました。
この話は記事にもしました。
最後にリンクを貼っておきましょう。
日本人は噴水をあまり好まないという話です。
おそらく無理に自然をねじ曲げて、それを鑑賞するという意識を持ってはいないのでしょうね。
だからといっては語弊があるかもしれませんが、上から自然に流れ落ちる滝は、日本人にとってなじみのあるものなのです。
しかしヴィクトリア滝ほど、大きくては、これはまた美の意識を阻むものなのかもしれません。
日本人はなによりも、繊細さということを大切に生きているような気がします。
小さくて可愛らしいものが好きですね。
弱いなかに芯の強さを感じるのでしょうか。
筋肉のかたまりをこれでもかと見せつけられると、どうも辟易してしまいます。
確かにギリシャの彫刻も嫌いではありませんが、どちらかといえば、繊細な造形の方が好きなようです。
日本人が好む滝には白糸の滝のようなものもあります。
どこかに可憐さがあってしっくりときます。
ところで落語にも滝の登場する噺があります。
歌人の西行がつくったという和歌を題材にしています。
しかし登場する歌はいかにも稚拙で、文学的な香りとは程遠いものです。
摂津の鼓ヶ滝がその舞台です。
伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花
西行は歌を詠んで1人で喜んでいました。
ところがあたりが暗くなってしまい、あわてて近くの民家に宿を借ります。
そこに住んでいた翁、婆、娘の3人に次々と歌を直され、西行は鼻柱を折られるという結末になるのです。
この3人は和歌三神といわれる住吉明神、人丸明神、玉津島明神の化身でした。
西行を戒めるために現れたのです。
鼓ヶ滝は今も有馬温泉にあります。
小さな滝から、これだけの噺をつくりあげる昔の人の想像力はたいしたものですね。
日本の庭
かつて授業中に何度も庭の話をしました。
生徒にどういう庭をつくりたいかと訊くのです。
すると大多数の生徒が西洋型の庭園はイヤだといいます。
映画「サウンドオブミュージック」の中にマリアと子供たちがザルツブルグの街中を歌いながら歩くシーンがあります。
ドレミの歌で有名です。
そこに出てくるのが代表的なミラベル庭園なのです。
本当にみごとなくらい幾何学模様に統一されています。
木も花も同じ形に切り揃えられています。
この感覚はすごいというほかはありません。
しかし長く見ていると、なんとなく疲れてしまいます。
元々、木や花が同じ形をしているワケはありませんね。
三角や四角や丸を基準にした造形にどうもしっくりと馴染めないのです。
ここに自然観の差があるのかもしれません。
日本人の好む盆栽をイメージしてみてください。
あれも確かに変形させて作ります。
ただし同じ形が並ぶことはありません。
自然の形に模して創造されるのです。
そこに大きな違いがあります。
生徒は日本式の庭を好む傾向が強いようでした。
下から水が噴き上げるの好まない感性は、若い世代の人も持っているようです。
今回は滝1つから話があちこちに飛びました。
自然への接し方の違いは、実に興味あるテーマです。
比較文化論の対象にもなります。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。