エビデンス
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「エビデンス」という表現について考えてみます。
ここに掲載した文章は新聞に載せられたコラムです。
昨今のSNSの実例をあげ、相手を攻撃するときに最も有用な表現がこれだと指摘した文章です。
「エビデンスはつぎの通りだ」と言われた瞬間、何も反論できなくなるという構造をうまく表現しています。

この文章はある大学の推薦入試にも使われました。
小論文の課題文になったのです。
問いは次のようなものでした。
あなたは他者と議論や対話をするとき、どのようなことを尊重すれば最も有意義な時間を持てると考えますか。
体験談などを含めて800字以内で述べなさいというのです。
もちろん、問題のキーワードは「エビデンス」です。
この言葉の意味をご存知ですか。
エビデンス(evidence)は「証拠」「根拠」「裏付け」「形跡」といった意味合いで使われる表現です。
個人の感想や憶測ではなく、客観的な事実に基づいて意見を述べる際に、その裏付けとなる情報を指すのです。
相手を打ち負かすための道具として使う言葉ではありません。
しかし今の世相をみると、攻撃のための表現になりがちな面が目立つようです。
ここでの課題の構造が見えてきたでしょうか。
コラムのどこをおさえればいいのかというポイントを最初に考えてみましょう。
課題文
「エビデンス」という言葉が日常会話でも当たり前に使われるようになりました。
文芸評論家の鴻巣友季子氏は、「自分こそ正しい」というバトルのツールになっている面がある、と指摘しています。
話を聞きました。
科学的根拠は重要ですし、私も大学の授業で「エビデンスを示すように」と言っています。
ですが、誰かの意見に「エビデンス」を求めたり、自分の「エビデンス」を主張する際に、それが相手を言い負かす目的だけになったりしている場合があり、そういう風潮には疑問を感じています。
SNS では、強い言葉で、短時間で、分かりやすく立場を表明する人に支持が集まります。
何かが起きた時、すぐに明確な言葉を発信する人の方が「バズる」時代です。
そしてその際に根拠として何らかのデータなどを提示すると、「エビデンスがある」として、その意見の正しさが裏打ちされるかのような効果があります。
私が書いている書評や映画評の世界でも、「速く」「分かりやすく」という現象が起きています。
人目を引く解釈で、「これはこういう作品だ」とぱっと提示する人がウェブ媒体などで重宝されているのです。
私には「バズるように文章を書いている」というより、「バズるように作品を読んだり見たりしている」人が多いように見えます。
「バズる見方」が先にあり、他の見方を切り捨ててしまっているのではないでしょうか。
同時に分かりやすい答えを求める人も多いです。

小説などの読者レビューにはしばしば、「作者が何を言いたいのか分からない」と書かれたりします。
たぶん昔から同じような思いを抱く人はいたのでしょうが、誰もが情報発信できるようになり、「とりあえず答えが欲しい」という欲求が可視化されました。
そんな様子を見ていると、答えを決めないで耐える、分からなさを耐えることは、とても精神力がいるのだと感じます。
複雑なものを複雑なまま受け止められない社会では、物事は単純化され、短時間に善悪や正しさが決まります。
その途端に「お前が悪い」という攻撃になるのです。
さらに、弱い立場の人たちが抱える「抑圧されているけどうまく言い表せない」という状況をピタリと言い当ててくれた「もやる」「マウンティング」「トーンポリシング」などの言葉も、あらゆる場面に浸透して、攻撃に使われるようになりました。
私はSNS で「昔は~だった」と書いただけでそれは「マウント」だと言われたことがあります。
「自分が正しい」「お前は間違っている」というバトルのツールが増大し、エビデンスの突きつけ合いになるのは不毛だと思います。
分からなさや違和感を抱えながら、ぐるぐると回るだけで答えは出なくとも、他者と長い時間をかけて話すのが対話のはずです。
そういう土壌が失われ、不寛容が覆っている。その中で追い詰められる人たちが増えていくのではと懸念しています。
複雑さを排除する時代
「エビデンス」がこの文章のキーワードであることは間違いありません。
しかし同時にもう1つあげろと言われたら、「複雑さ」も候補にあがるのではないでしょうか。
現代は複雑さを排除し、単純化されたメッセージを発信することが、支持や注目を集めるカギとなっています。
複雑なものを複雑なまま受け止めることは容易ではありません。
すごく苦しいからです。
我慢できなくなった社会では物事は単純化されていく傾向が強くなります。

短時間で善悪や正しさが決定するのです。
速さと分かりやすさを重視するメディアはSNSに頻出する表現に集中しがちです。
強い言葉を短時間で説明する人に支持が集まるのです。
何かが起きた際に、すぐに明確な言葉を発信する人が「バズる」傾向にあります。
「タイパ」と「コスパ」を重視するということは、誰もが短時間で一目瞭然の結論を得られる方法を求めているということです。
それこそが最も強い結論に近づける方法だからです。
そのニーズにこたえられるシステムは何か。
それこそが「エビデンス」登場の背景です。
強い意見
ある強い意見の根拠として何らかのデータなどを提示すると、「エビデンスがある」として、その意見の正しさが裏打ちされるかのような効果が発生します。
文芸評論家の鴻巣友季子氏は、この「エビデンス」という言葉が、「自分こそ正しい」というバトルのツールになっている面があると指摘しているのです。
彼女の専門である文芸評論の世界でも「はやく」「分かりやすく」という傾向が見られるといいます。
人目を引く解釈で、「これはこういう作品だ」とぱっと提示する人が重宝される傾向が強いのです。
しかし文学を学ぼうとするならば、そこにあるのが「複雑さ」であることは、誰の目にも一目瞭然でしょう。
人間を幾つかのエビデンスで割りきってしまうことなどはできません。
複雑さや曖昧さに耐えながら、文脈を読み解き、そこに人間の真実を見抜くという態度が文学の持つ真骨頂のはずです。
誰でも、分かりやすい答えを欲していることはよくわかります。
「作者が何を言いたいのか知りたい」というのは、誰もが望むところです。

しかしそれが容易ではないとなると、「とりあえず答えが欲しい」という欲求が前面に出てきます。
複雑なものに対して同じような思いを抱く人は確かに今も存在します。
誰もが情報発信できるようになった今日、「とりあえず答えが欲しい」という欲求が強くなるようになりました。
その過程で必ず「自分が正しい」「あなたは間違っている」というバトルのツールが増大していく傾向が強くなります。
そこに登場する表現が「エビデンス」なのです。
互いに自分の主張を裏付けるエビデンスを相手に提示します。
解答を決められずに耐えるには強い精神力が必要です。
社会が単純化を求める中で、曖昧さを受け入れることの難しさが増しているのてす。
そのことを前面に出して、表現を重ねていってみてください。
必ず説得力に満ちた文章になるはずです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
