子貢と子路
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は孔子の高弟、子貢と子路の性格の違いについて考えてみましょう。
孔子の弟子と言われたら、すぐ頭に浮かぶのがこの2人です。
子貢(しこう)(BC520-BC446年)は、春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した弟子です。
年齢は孔子より31才年下でした。
弁舌に優れていたといわれています。
衛や魯の国で大いにその外交手腕を発揮しました。
商才にもすぐれ、孔子が亡くなった後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担ったのです。
孔子は彼の才気煥発さを愛し、厳しく反省を促しながらも時に励まし、愛情のこもった指導をしています。
一方、子路(しろ)は(BC543-BC481年)は武勇を好み、そのためか性格はいささか軽率なところもあったといわれています。
しかしその軽率さをとがめられたものの、素直なところを孔子は愛しました。
『史記』第7巻では孔子の門人を一括して扱っています。
『仲尼弟子列伝』がそれです。
その中で最も多くの字数を子貢に割き、ついで詳しく書かれているのが子路に関してのものです。
子貢はクールな切れ者、子路は人生意気に感ずる熱血漢というわけで、その個性の強烈さにおいて同門中の両雄であり、いかにも『史記』の作者、司馬遷が好んだ門人たちなのです。
口の達者な子貢はよく孔子にたしなめられました。
孔子に他の弟子、顔回との優劣を問われた子貢は、自分は顔回にはとても及ばないと答えたと言われています。
また、孔子の弟子、陳子禽の問いに答えて、孔子先生はあらゆる所、あらゆる人から周の文化の伝統を学び取った哲学者だと答えたそうです。
本文
端木賜(たんぼくし)は衛人、字は子貢、孔子よりも少(わか)きこと三十一歳。
子貢、利口巧辞(りこうこうじ)なり。
孔子常に其の辯(べん)を黜(しりぞ)く。
問ひて曰く、汝と囘(かい)と敦(いづ)れか愈(まさ)る、と。
對(こた)へて曰く、賜(し)や何ぞ敢(あへ)て囘(かい)を望まん。
囘や一を聞きて以て十を知る。
賜や一を聞きて以て二を知るのみ、と。
子貢既(すで)に已(すで)に業を受く。
問ひて曰く、賜は何人ぞや、と。
孔子曰く、汝(なんじ)は器(き)なり、と。
曰く、何の器ぞや、と。曰く、瑚璉(これん)なり、と。
陳子禽(ちんしきん)、子貢に問ひて曰く、仲尼は焉(いづ)くにか学べる、と。
子貢曰く、文・武の道、未だ地に墜(お)ちず、人に在り。
賢者は其の大なる者を識り、不賢者は其の小なる者を識る。
文・武の莫道有らざる(な)し。
夫子焉(いづ)くにか学ばざらん。而うして亦(また)何の常師(じょうし)か之れ有らん、と。
現代語訳
端木賜は衛の人、字が子貢、孔子より三十歳年少です。
子貢は弁舌が巧みでしたが、孔子はいつもその弁舌の巧みさをしりぞけました。
孔子が子貢に尋ねたことがあります。
「おまえと顔回とではどちらがまさっていると思うかね。」
子貢が答えました。
「私はどうして顔回のようになりたいなぞと思いましょう。顔回は一を聞いて十を知るほど賢明ですが、それにひきかえ私は一を聞いて二を知る程度ですから。」
子貢は孔子に学問を習いました。
そして、孔子に尋ねたのです。
「私はどんな人間なのでしょうか。
孔子が答えました。
「おまえはいってみれば器だ。」
そこで尋ねました。
「どんな器ですか。」孔子が答えました。
「瑚璉だよ。」
陳子禽が子貢に尋ねました。
「仲尼はだれについて学ばれたのですか。」
子貢が答えました。
「周の文王・武王が創り出した礼楽の伝統は、まだ完全に滅んだわけではありません。
人びとのなかに残っています。
賢者はその大事なところを理解しているし、賢明でない者もその一部は理解しています。
だから、文王・武王の教えはまだ至るところにあるのです。
孔子先生はどこへ行っても学ばないことはないのです。
特定の師など先生にはいなかったと考えるのが妥当でしょう。」
「注」
字(あざな) 中国で成人男子が実名以外につけた名。
瑚璉(これん) 五穀を盛って神前に供える器。高貴な人格、人材。
孔子の弟子たち
孔子には約3000人の弟子がいたと言われています。
直接、教えを受けたものだけでもかなりの数がいたと思われます。
特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいました。
そのうち特に優れた高弟を「孔門十哲」と呼んでいます。
そのその才能ごとに四科に分けられているのです。
そのため、「四科十哲」などとも呼ばれています。
徳 顔淵、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)
言語 宰我(さいが)、子貢
政事 冉有(ぜんゆう)、子路
文学 子游、子夏
以上の10人がその人たちです。
子貢についての記述には次のようなものがあります。
子貢、人を方(くら)ぶ。
子曰く、「賜や賢なるかな。夫れ我れ則ち暇あらず。」と。
現代語訳は次の通りです。
子貢は数人の人物を比較して、あれこれと批評していました。
そこへ先生が来て、おっしゃったのです。
「賜(子貢のこと)は賢いな。私には人の優劣を比較している暇なんてない。」と
強烈な皮肉ですね。
孔子は頭が回りすぎて、言葉が先行してしまう子貢を何度もたしなめたとあります。
子路については次のような一節があります。
子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを恐る。
現代語訳は次の通りです。
子路は聞いた教えを実践できるようになるまで、新しい教えを聞く事を恐れたとあります。
子路の生真面目さ、愚直さが分かる内容ですね。
人間はつい中途半端に学びがちですが、子路はそのようなことをせず、不器用なくらい、あらゆるものごとに真面目に対応したようです。
彼等が孔子から受けた「教え」とは、道徳的な生き方が中心でした。
それこそが儒教の道だったのです。
多くの弟子をどのように教育していったのかを見るだけで、それ自体が意味ある教科書だったのではないでしょうか。
現代でも『論語』の価値は少しも衰えてはいません。
学ぶべきことの多い古典の中の一冊だといえるのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。