【源氏物語・教育論】光源氏は自分の愛息・夕霧をどう育てようとしたのか

学び

紫式部の教育観

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は光源氏の教育観について考えてみます。

源氏物語に登場する人物の数は430人を超えると言われています。

それぞれの人物を書き分けていった、作者、紫式部の筆力は驚嘆に値しますね。

作品の中には、人生全般に対する彼女の価値観が色濃く反映されているのです。

男女の愛情の問題はもとより、生老病死に関わる、ほぼすべての思索が色濃くにじんでいます。

ことにユニークなのは、彼女の教育観が示されているところです。

『乙女』の巻は亡き葵の上との子、夕霧が12才になって元服したときの話です。

そのための儀式を夕霧の祖母大宮の邸宅で行い、続いて大学寮入学のための式を源氏の邸宅二条院の東の院で行った場面につづくところです。

この巻には、紫式部の教育論が細かく書かれています。

彼女が漢籍に親しむことができたのも、歌人の父を持った故でした。

その博識ぶりは、物語のあちこちに散見されます。

式部は学問をするということを、どのように考えていたのか。

それが作品の中で愛息、夕霧に対する源氏の態度にはっきりと出ています。

物語を通じて、教育に対する紫式部の考え方が示されているのです。

源氏は屋敷のなかに部屋をつくり、学才のすぐれた師に夕霧をあずけ勉強させました。

夕霧は父の厳しさをひどいと思いつつも、我慢して学ぼうと思い、短期間で『史記』を読破したのです。

想像以上の勉強ぶりですね。

寮試(入試)の前に夕霧の力を試してみると、見事に解答するので人々は感動して、涙まで流します。

当時は大学寮という教育機関で、官吏の養成を行っていたのです。

そこで父親の光源氏はどうしたのか。

我が子、夕霧に対する源氏の教育方針はどのようなものだったのか。

これは現代にも通じる話です。

中学受験などが声高に語られる今の時代とどのような違いがあるのか。

夕霧は父親をどのように思っていたのか。

夕霧の人物像とともに、読み取ることがポイントになります。

彼はその後寮試に合格し、以後順調に出世していきます。

その性格は長大な物語の中で一貫しており、父に似ない堅物として描かれているのです。

本文

うち続き、入学といふことせさせたまひて、やがて、この院のうちに御曹司作りて、まめやかに才深き師に預けきこえたまひてぞ、学問せさせたてまつりたまひける。

大宮の御もとにも、をさをさ参うでたまはず。

夜昼うつくしみて、なほ稚児のやうにのみもてなしきこえたまへれば、かしこにては、えもの習ひたまはじとて、静かなる所に籠めたてまつりたまへるなりけり。

「一月に三度ばかりを参りたまへ」とぞ、許しきこえたまひける。

つと籠もりゐたまひて、いぶせきままに、殿を、

「つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある」

と思ひきこえたまへど、おほかたの人がら、まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、

「いかでさるべき書どもとく読み果てて、交じらひもし、世にも出でたらむ」

と思ひて、ただ四、五月のうちに、『史記』などいふ書、読み果てたまひてけり。

今は寮試受けさせむとて、まづ我が御前にて試みさせたまふ。

例の、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、『史記』の難き巻々、寮試受けむに、

博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、一わたり読ませたてまつりたまふに、至らぬ句もなく、かたがたに通はし読みたまへるさま、爪じるし残らず、あさましきまでありがたければ、

「さるべきにこそおはしけれ」と、誰も誰も、涙落としたまふ。

現代語訳

引き続いて、大学入学の儀式を執り行い、すぐに東の院に部屋を用意して、実際に学殖の深い師に夕霧を預けて、学問に専念させるのでした。

大宮の元へは、めったに出かけません。

大宮はつきっきりで可愛がり、まだ稚児のように扱うので、あちらに預けては、ゆっくり勉強に専念できないと思われ、静かな所に籠めらせたのです。

「月に三度は行ってもいい」と許可しました。

部屋に籠っているので、気が晴れず、父の源氏を、

「ひどい方だ。こんなに刻苦しなくても、高い位に上り、世に用いられる人もいるじゃないか」

とも思いましたが、夕霧は元来がまじめな性格で、浮ついたところもないので、意を決して、

「なんとか漢籍もはやく読んでしまって、官途につき、出世もしたいものだ」

と思って、四、五ヶ月のうちに、『史記』などの書も読み終えてしまったのです。

今は、大学入試を受けるべく、まず自分の前で模試をさせてみました。

例によって、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などの列席の前で、師の大内記が呼ばれて、『史記』の難しいところを試験させてみると、

よどみ止まるところもなく、どの箇所もよく理解していて、疑問の余地もなく、誰もが驚くばかりの出来であったので、

「天性の資質がおありだ」と誰もが、涙を落とすのでした。

出世と勉学

夕霧は、源氏の嫡子です。

普通なら六位から始まるところですが、「蔭位(おんい)」という制度を使えば、「四位」から始められるのです。

しかし光源氏はそうはさせませんでした。

六位の制服は浅葱色です。

この身分では殿上はできません。

しかし特権階級の夕霧は、それを特別なルートで超えることができたのです。

世間の人たちは息子のために、光源氏がその特権を利用すると考えたに違いありません。

ところがそうはさせず、六位から始めさせたのです。

なぜか。

何事も自分の意志のとおりになる時代にそんな取り計らいをするのは、俗人のすることであるという気がした、とあります。

しばらくの間勉強を続けさせようというのが、光源氏の教育方針だったのです。

彼はこう言います。

貴族の子に生まれ、位階が思いのままに進んでいくと、自家の勢力に慢心した青年になりがちです。

学問などをすることが、ばかばかしく感じることもあるでしょう。

家に権勢のある間は、嘲笑されながらも忖度をしてくれる人がいます。

ところが権力が失墜すれば、人から軽蔑されましても、なんらみずから恃むところのないみじめな者になってしまうのです

現在、六位でしかないのを見て、たよりない気はいたしましても、将来、国家の柱となる教養を身につけておくほうがいいことに違いありません。

私(源氏)が生きている間に、できる勉学は続けさせた方が、いずれ本人のためになるのです。

夕霧に対して、源氏は一切の優遇措置はとらせませんでした。

ここには源氏自身の反省も含まれています。

十分に勉強しなかったことで、苦労したことがたくさんあると後悔しているのです。

自分の子供には、過ちを犯してもらいたくはなかったのでしょう。

教育は先の先までを考えて行うものです。

この文章を読むと、平安時代も、学問をすることは非常に重要なこととされていたのがよくわかります。

紫式部自身、和歌や漢学を学んでいたからこそ、中宮彰子のサロンに出入りし、藤原家の繁栄を目の前で見ることができたのです。

息子に厳しかった光源氏の心の中を少し、垣間見たような気がしますね。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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