【わがひとに与ふる哀歌・伊東静雄】透明な叙事詩に宿る魂【三島由紀夫】

学び

伊東静雄と三島由紀夫

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は詩人の話をします。

伊東静雄という名前をきいて、すぐに反応する人は、それほど多くはないと思われます。

現代という時間の中からみると、遠い存在になりました。

しかしその透明な詩は、今も大変に魅力的です。

今回は彼の処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を読んでみましょう。

現在は青空文庫で読めます。

昭和10年に出版されたこの詩集は、当時の青年に熱狂的に受け入れられました。

その表現には若い時期だけの持つ、透明なリリシズムが宿っていたからでしょう。

一言でいえば、詩があまりに美しかったのです。

その美に震えたのは若き日の三島由紀夫でした。

彼の存在が伊東静雄をあぶりだしたといっても過言ではないでしょう。

三島は伊東が当時在職していた大阪府の住吉中学校を訪ねています。

処女小説集『花ざかりの森』の序文を頼んだものの、彼に断られているのです。

なぜそこまで心酔したのか。

そこに三島という人間の複雑な内面が潜んでいます。

一言でいえば、この詩人に対する愛憎があったのではないでしょうか。

三島由紀夫には見えたのに違いありません。

「生」と「美」が「死」に担保されていることを、早くから見切っている詩人が存在したからです

どれほど心酔していたのかの証拠に、彼は『豊饒の海』の第1作を伊東の詩と同じタイトルの『春の雪』と名付けました。

春の雪

春の雪とは立春を過ぎてから降る雪のことです。

はかないものの譬えにもよく引かれます。

この詩の入った第3詩集『春のいそぎ』が発表されたのは昭和18年のことでした。

太平洋戦争のさなかです。

その詩は次のようなものです。

ちなみに「いそぎ」とは準備をさします。

春の雪

みささぎにふる はるの雪
枝透(す)きて あかるき木々に
つもるとも えせぬけはひは
なく声の けさはきこえず
まなこ閉ぢ 百(もも)ゐむ鳥の
しづかなる はねにかつ消え
ながめゐし われが想ひに
下草の しめりもかすか
春来むと ゆきふるあした

静かな御陵(みささぎ)の風景です。

Kanenori / Pixabay

雪は木々の枝に降りかかっても、積もってはいません。

鳥も眼を閉じて動かず、春の雪は降っては消えていきます。

太平洋戦争のさなかに書かれたこの詩が持つ意味はどのようなものだったのか。

それを想像するのは難しいかもしれません。

しかし三島由紀夫の美意識には、真正面から日があたったのでしょうね。

伊東静雄への傾倒は格別のものがであったのです。

彼の詩は難解です。

必ず思想的な背景を説明しなければ、理解できないかのようです。

日本浪漫派がそれです。

保田與重郎が提唱した思想の流れでした。

わがひとに与ふる哀歌

彼の考えは絶望的なまでの諦観と、古典の学識に彩られています。

それだけに特段の高揚感はありません。

むしろ死を背後に担った悲壮感を漂わせていました。

戦争を正面切って賛美するといった思想とは全く違う、むしろ「美」に見出された哲学的なものだったと言えます。

三島由紀夫にも国粋的な意識が全くなかったわけでは、もちろんありません。

しかしそれよりも自分の持つ美の感覚に忠実になればなるほど、保田與重郎を通して、伊東静雄に近づくという構図であったといえます。

これから読む『わがひとに与ふる哀歌』には、何か人を根底から揺さぶる力があるのではないでしょうか。

それが何であるのかはいまだにわかりません。

萩原朔太郎はこの詩集を読み、「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛したと語られています。

voltamax / Pixabay

日本浪曼派の代表的な詩人として、保田與重郎と並び称されたことがよくわかります。

わがひとに与ふる哀歌

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内うちの
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒つねに変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ひとけない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

異様な冷たさと理知的な響きを持った詩です。

彼がドイツ・ロマン派の詩人ヘルダーリンから決定的な影響を受けていたことはよく知られています。

文脈の強さなどを、どうしても自分の詩の中に導入したかったのでしょうか。

そうしたレトリックを受け入れられないとする読者も多くいたことも確かです。

何度か声に出して読んでみてください。

リズムの美しさが身にしみてきます。

曠野の歌

第2詩集『夏花』には「八月の石にすがりて」といった詩もあります。

冒頭の部分です。

八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命(さだめ)を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。

この詩にも色濃く「死」の影が滲んでいます。

『真夏の死』という小説を書いた三島由紀夫に通底するものを、ここでも感じないわけにはいきません。

bella67 / Pixabay

最後に『曠野の歌』を詠みます。

曠野の歌

わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時の木の実熟うるる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種く花のしるし
近づく日わが屍骸を曳かむ馬を
この道標はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!

伊東静雄(1906~1953年)は、現在の長崎県諫早市に生まれました。

大学卒業後は大阪府立住吉中学校(現:大阪府立住吉高等学校)教諭となって詩作活動をしながら、生涯教職から離れませんでした。

忌日に近い3月末の日曜日は、菜の花忌として顕彰されています。

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諫早市の伊東静雄顕彰委員会によって、現代詩を賞する伊東静雄賞が設けられているのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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