五七調
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は島崎藤村の代表的な詩を読みましょう。
高校では必ず習います。
いかにも文語の文体が詩の格調を感じさせますね。
小諸の「懐古園」を訪ねた人は、千曲川の風景が目に見えてくるのではないでしょうか。
足を伸ばして、彼の生家を訪ねた方もいるはずです。
木曽路を歩けば、藤村の足跡を知ることができます。
小説では『破戒』が有名ですが、読んだことのある人はどれくらいいるのでしょうか。
学校では文学史の中で、紹介するレベルです。
よほど彼について知りたいと思う人でなければ、手にとることはないと思われます。
時は確実に過ぎました。
小説は読まなくても、さすがにこの詩は聞いたことがあるはずです。
五七調の音の繋がりが、耳に心地いいですね。
難しい表現も見かけますが、語彙の持つ表現の深さを感じます。
この詩の味わいは、その否定表現の繰り返しにあるとよく言われます。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2022/06/undraw_By_the_road_re_vvs7-1024x711.png)
日本人は肯定形よりも、むしろ否定形の方が好きなのかもしれません。
「悲しむ」「萌えず」「知らず」「見えず」などの表現が次々とつながっていきます。
最初に1つの感情や風景を取り出し、それを次に否定します。
すると、その場所の風景がないと言われてもみえてくるのです。
心の内側が波立ち、一瞬、動揺します。
その繰り返しで、全体が構成されているという不思議な作品です。
憂いがあり、消え残る谷があるとはいうものの、香りはもうありません。
しかし確かに感じるのです。
詩の全文を読みましょう。
深い味わいのある作品です。
千曲川旅情の歌
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶けて淡雪流る
あたたかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/10/孤独_1570778027-1024x576.jpg)
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の
消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を靜かに思へ
百年(ももとせ)もきのふのごとし
千曲川柳霞みて
春浅く水流れたり
ただひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれい)を繋(つな)ぐ
島崎藤村
藤村は明治5年の生まれです。
長野県馬籠村ある本陣の家に生まれました。
身分の高い人だけが泊まれた家です。
大名、旗本、幕府の役人などが主に利用しました。
大変な名家なのです。
家は燃えてしまいましたが、今でも藤村記念館として当時をしのばせてくれます。
広い敷地の家です。
『若菜集』という抒情詩を載せた第1詩集が有名ですね。
小諸義塾の教師として信州に赴任後、明治34年に「落梅集」を発表しました。
この頃から小説も書き始めました。
小諸の懐古園を1度は訪ねてみてください。
旅への憂いを静かに語った詩が胸にしみてきます。
「落梅集」の冒頭にあるのが『小諸なる古城のほとり』です。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/07/55e5d6424e53ae14ea898675c6203f78083edbe35755744971267d_640_小説.jpg)
後半の詩とあわせて現在では『千曲川旅情のうた』と呼ばれています。
黙読ではなく、声に出して読んでみてください。
すると、旅の持つ憂愁が心に湧き上ってきます。
意味はそれほどに難しくありません。
しかし現在使われていない表現もあります。
簡単に現代語訳をしておきましょう。
現代語訳
小諸にある古城のあたりにたたずみ、旅人はただ白い雲を見上げている。
すると、旅の愁いがいっそう募ってくるのだ。
悲しみが増すのである。
春まだ浅い。
はこべは芽生えてもいないし、若草も腰を下ろすには十分ではない。
しかし、白く輝く山々のすそ野には淡雪が溶けて流れている。
あたたかい春の光があるとはいえ、野に満ちる香りはない。
春霞が浅くかかっているだけで、麦の色はわずかに青いのだ。
畑の中の道を宿へと急ぐ旅人の群れが見える。
日が暮れて浅間山も見えなくなった。
草笛の音が哀しく聞こえてくる。
旅人は千曲川の漂う波の岸に近い宿にあがり、濁り酒を飲んで旅愁をしばらくの間慰めるのだ。
昨日はこうだった。
今日もまたこんな風になるのだろう。
人はなぜあくせくして、明日のことだけ思い煩うのか。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/11/torrent-4435196_640.jpg)
栄枯盛衰の夢のあとが残る谷間に降りて、波が漂うのを見れてみるがいい。
小諸の古城は何を物語っているのだろうか。
岸を洗う波は何と返事をするのか。
過去を静かに思い起こすと、百年の昔も昨日と変わらない。
川岸の柳はかすんで、春浅い冷たい水が流れていく。
旅人は岩を巡り、岸辺にわが憂いをとどめるのみなのである。
旅人往来
この詩は日本人にとって大切なものです。
ぜひ、暗記してください。
日本人は流離という発想が好きですね。
どこかへ流れていくという旅人の視点です。
西行や芭蕉などは典型的でしょうね。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/12/undraw_next_option_2ajo-1024x778.png)
種田山頭火などもそうです。
若山牧水の代表的な歌をご存じでしょうか。
幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
まさにこの歌に通じるものが藤村の詩にもあります。
「盛者必滅」「会者定離」の厳しい戒律は永遠です。
それだけにこの詩の重みが増すというものです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。