孤独の深さ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は孤独の深さというテーマを考えてみたいと思います。
人間にとって「孤独」は永遠の課題です。
最も強い絆で結ばれていると考えられるのは、やはり家族ではないでしょうか。
自分の気持ちをわかってくれるはずの、友人や知人も必要です。
近年ではSNSなどでも、盛んにコミュニケーションが行われています。
深い繋がりの中で、誰もが自分の悩みを理解してもらい、生きるための力を養い生きようとしているのです。
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ところが、誰にも打ち明けられない悩みを抱え、孤独を感じたりする人も多く存在します。
「望まぬ孤独感」に陥っている人はあとをたたないのです。
人間はなぜ孤独を感じるのか。
これは非常に悩ましく、難しい問題です。
最近では重いうつ状態になり、社会的な活動を続けることができなくなる人もいます。
責任感が強く、つねに自己規制してしまいがちなタイプに多いのです。
家庭や心の問題は、仲の良い友人にも、なかなか打ち明けにくいものです。
かえって心配をかけてはいけないと神経を使ってしまうことも、原因の1つになります。
参考のため、人間と孤独をテーマにした文章を読んでみましょう。
人間という生物が本質的に抱えている問題を論じた本です。
著者は麻生武氏。
発達心理学者で、幼児の遊びや想像力についての研究者です。
人間が発達する過程で、なぜ孤独感を持つようになるのかを探求しています。
彼の分析によれば、人間は自己と他者との断絶を認識した時から、孤独が始まるのだというのです。
『身ぶりからことばへ』から一部だけ抜き出します。
孤独感の本質
ロビンソン・クルーソーが味わっている孤独感とはいったいどのようなものだろうか。
彼が耳にする風の音や波の音を聞くものは、彼の他には誰もいない。
彼の目に映るものを共に見てくれるものも誰もいない。
彼が苦しもうと悲しもうと誰も知らない。
彼は世界から取り残され、たった一人ぼっちなのである。
彼はそれゆえに苦しむのである。
他の生物は、はたしてロビンソンのように孤独感で苦しんだりするだろうか。
孤独であることを意識しそれを味わえるのは、人間の高度な能力の1つであるように思われる。
私たちは仲間と生活し交流し合っていれば、孤独感を抱かないというわけではない。
私たちがロビンソン・クルーソーの物語に心をひかれるのは、私たちがある意味でロビンソン・クルーソーに他ならないからである。
私たちは、少なくとも大人である私たちは、いつからか孤独であることを知っている。(中略)
自己は唯一無二の存在であり、他者と自己とは本質的に異なった存在であるという意識である。
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このような意識を「私意識」と呼ぶことができるだろう。
「私的なもの」とは決して他者と分かち合うことのできないようなもの、すなわちもっぱら「私」だけに属するものである。
他の生物が孤独を味わうことができなかったのは、別な言い方をすれば、彼らには「私的な」世界つまり「私」だけの世界というものが成立していなかったためとも考えられるように思われる。(中略)
差異の概念は、常に同一性や類似性の概念を前提にしている。
私たちは、まったく異なるものを比較することができない。
たとえば、形容詞とプリンとを比較することは困難である。
しかし、納豆とプリンとを比較するのは容易である。
なぜならば、両者は物体でありしかも加工品であり食物であるなど多くの同一性・類似性をもっているからである。
自己と他者とが互いに似た存在であることを知らず、自己と他者とが共通世界を分かち合っていることを知らない、他の生物には、自己と他者との断絶を理解することはできない。
「自己」と「他者」とを似た同型的な存在として組織化し、その両者に平等に開示された「共同化された世界」をもつことのできたものにだけ、その「共同的な世界」から疎外されたという意識が発生しうるのである。
自己と他者
人間にとって1番厄介なのが、他者との関係です。
軋轢といってもいいかもしれません。
自分と他者とが互いに似た存在であることを、よく知っているのが原因なのです。
だから余計に気になるワケです。
もちろん、他人と比較することが特に悪いということではありません。
人間には自ずから判断力があります。
さまざまな行動に対して、優劣をつけることも当然できます。
というより、それが基本的な性なのです。
よくあるケースでは、持ち物についても同じことが言えます。
車、時計、メガネ、家電、家。
その他、学歴、容姿から服装にいたるまで、ありとあらゆる要素を探ってみれば、差のつかないものはありません。
無理にマウントをとる気がなくても、無意識に反応しているのです。
その結果、精神の平衡を失うということもあり得ます。
同じ状況にいるときでも、それぞれの事情は異なるのです。
他者の中に自己と同じ要素が多々あるということに正対すれば、多くの問題はむしろ解決への道をたどるはずなのです。
確かに言葉でそういうのは容易いです。
しかし、実際その場に直面した時、大半の人間は冷静ではいられません。
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過去の自分と冷静に比べることができれば、いくらか心理的には楽になれます。
今回は以前に比べてかなりよくできた、といった類の自己判断も可能でしょう。
そのためには自分らしさを前面に出すために、自分を理解してくれる人や居心地のいい場所を持つことです。
しかし多くの場合、それが非常に難しいのが実態なのです。
とくに追い詰められた時には、そういう場へ出向くことも億劫になりがちです。
孤独であることが人間の証であるといってしまえば、それまでです。
その力を積極的に創作などに振り向けることができれば、それも人間だけ持つ特性だといえないこともありません。
空想の友達
麻生氏によれば、人は発達段階で「空想の友達」をつくりたがるのだそうです。
なんのことかわかりますか。
自分の周囲に自分のことを理解してくれる、他者のアバターに似たものを置くことを意味します。
1番多いケースが「ぬいぐるみ」なのだとか。
そこにある「もの」に魂を植え付け、自分の言葉を吸収してやさしく反応をかえしてもらう装といえばわかりやすいかもしれません。
分身と言ってもいいのかもしれません。
ぬいぐるみと同じようなシステムのものに、返事をする会話型のロボットがあります。
子供や動物の形をしたケースが多いです。
AIが会話の質をどんどん高めていきます。
その連続で、癒されるときを持てるようになるワケです。
時には「タオル」とか「毛布」「枕」のようなものもあります。
肌触りがよく、幼い頃から、寝る時にそばにないと、リラックスできないものです。
あるいは子供の頃から、いつも両親に読んでもらった童話でもいいのです。
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自分がそこにいていいという安心感をあたえてくれるものだったら、全て「空想の友達」になり得ます。
日記をかくことや文章を書くこと、絵を描くこと、音楽を奏でること。
あらゆるジャンルの創造の背後には、不安な自分を安心させるという要素があります。
「空想の友達」を身近な場所で手にしている人は、むしろ「孤独」を自分のばねにして生きていく方法を知っているのかもしれません。
好きなものがあれば、「一人遊び」も可能です。
孤独はある意味で、最も高度な人間の本質に違いないのです。
ポイントはそれをどう自分のものにしていくのかという、方法論にあるのではないでしょうか。
少し、このテーマについて考えてみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。