【コンクリートの時代・隈研吾】二項対立で論点をあぶりだす【木の本質】

学び

コンクリートの時代

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

建築家・隈研吾の名前が一躍知られるようになったのは、国立競技場の設計がコンペに通った時からといってもいいでしょう。

自然の素材である「木」を使い、格子を多用したデザインで競技場全体を構成したのです。

彼の設計する建築物に木が大量に使われるようになったのは、阪神大震災(1995年)以降だといわれています。

それに続く東日本大震災(2011年)の惨状は、人工物で自然に立ち向かおうとする人間の弱さを露呈してしまいました。

その頃から、SDGsの考えが一段と強まり始めたのです。

地球温暖化を防ぐために、環境への視点が強く位置付けられるようになりました。

経済成長の鈍化や高齢化が一層進む中、周囲に調和したやさしい建築への志向が高まっていきました。

隈研吾が大学院で修士論文を書いていた頃、最も時代の先端を行っていたのは、新鋭の建築家、安藤忠雄でした。

彼の放つ強烈なオーラは、時代の流れにびったりとフィットしていました。

コンクリート建造物の代表選手になりつつあったのです。

次々とコンペに勝ったのは、安藤の設計するコンクリートの打ちっぱなしを基本にする建築群でした。

このサイトにも彼の著書について、いくつかの記事があります。

最後にリンクを貼っておきましょう。

コンクリート素材は、まさに時代の寵児となりつつありました。

ル・コルビュジェに代表されるコンクリート建築を志向した彼は、その後もずっと活躍を続けていますね。

しかしその一方で、周囲への調和を基調とした「負ける建築」を目ざす流れも併走しつつありました

これから読むエッセイは、典型的な二項対立の構造を持っています。

時代の潮目は明らかに変わったというのが、筆者の論点です。

コンクリートの持つ底力を評価しつつ、木への執着を書き切っているのです。

出典は『自然な建築』というエッセイ集です。

本文

コンクリートの「強さ」についても、その「強さ」の質についても、我々は注意深く見極めなくてはならない。

コンクリートは突然に固まるのである。

それまではドロドロとしていた不定形の液体であったものが、ある瞬間、突然に信じられないほど硬く強い物質へと変身を遂げる。

その瞬間から、もう後戻りがきかなくなる。

コンクリートの時間というのは、そのような非連続的な時間である。

木造建築の時間は、それとは対照的である。

木造建築には、コンクリートの時間のような、「特別なポイント」は存在しない。

生活の変化にしたがって、あるいは部材の劣化にしたがって、少しずつ手直しし、少しずつ取り替え、少しずつ変化していく。

逆な見方をすれば、20世紀の人々はコンクリートのような不連続な時間を求めたのである。

そのようにして、不定形なものを固定化することに、情熱を燃やしたのである。

例えば核家族が住まうための家を建てることに、20世紀の人々は懸命になった。

20世紀の経済を下支えしたのは「持ち家」への願望である。

従来の地縁、血縁が崩壊し、近代家族という孤立した単位が、大きな海を漂流し始めたのが20世紀であった。(中略)

同様に、国家も、自治体も、あらゆる共同体が、コンクリートによる固定化で明確な「形」を獲得することによって、その存在の不安定を、解消しようとした。(中略)

しかし実際には、不安定なものほど、上辺の固定化によっては救われない。

不安定なものが最も必要としているのは柔軟性のはずである。

固定化は不安定なものに不自然な足かせをはめるだけである。

あるいは、コンクリートによる固定化は、もはや誰もが必要としていない無用の存在としての共同体に対する、さらなる不必要な出費であった。

コンクリートとは消えゆく不安定なものたちの、断末魔の叫び声である。

二項対立

非常に理解しやすい文章ですね。

少し難しいと感じる人は、表をつくるとわかりやすくなります。

頭の中でそれぞれの項目を分析しながら、読んでいけばいいのです。

コンクリートは場所を選ばず、構成材料は、地球上のどこにでもあります。

型枠の中に鉄筋を組んで、砂、砂利、セメントさえあれば完成するのです。

形の自由さにプラスして、表層の自由もあります。

コンクリートの上に石を貼りつけたり、木、アルミの板、珪藻土をアレンジするだけで、全く違う風合いになるのです。

しかしそこに同一化への危険があるのも事実です。

隈研吾が最も力点を置いているのは、液体のように自由な素材が、打設した日に突然、コチコチに固くなることです。

彼はこれを、コンクリートの時間と呼びました。

その結果、いつの間にかその質感と重量感が都市を支配することになってしまったのです

その対極に位置するのが木です。

木は大変に不自由な素材なのです。

弱いために、完成した後も建物に手を加え続けなければなりません。

つまりいつまでも永遠に、手を入れられるという自由があるというのです。

ひとたび完成したら、あとはじっと脇に佇むしかないコンクリートとの差がここにあります。

コンクリートは時の流れを非常に硬くし、人間相互の持つ密な感受性を拒否するというのです。

ある意味、時間の感覚が全く違う素材です。

その反対に、木の時間はあえて区切ることをしません。

21世紀型の都市と人間

確かにコンクリートは自由と普遍性を持っています。

どこでも運べるし、どんな形にもなります。

独特の質感と重量感も保有しています。

現在、都市といえば、コンクリートに覆われた重い空間をイメージしてしまいますね。

筆者が最後に書いた表現の意味がわかりますか。

コンクリートとは消えゆく不安定なものたちの、断末魔の叫び声であるというのです。

ここまで読んできて、あなたはどのような感想を持ちましたか。

酸性雨にさらされる現代の状況の中で、どの材質が生き残れるのか。

コンクリートと木という、2つの対立する建材のどちらに軍配をあげけばいいのか。

存在を確かなものにしようと、人々はより強い硬質の素材を探し続けてきました。

しかし隈研吾によれば、それはうわべの固定化でしかないというのです。

現在真に必要なものは、もっと柔らかい関係なのだと力説しています。

存在の不安定さが、人間の関係をぎくしゃくしたものにしているという指摘にも真実味があります。

家族の在り方も昔の大家族主義とは、まったく違ったものです。

地縁、血縁も崩壊し、人間が相互により孤独になったのかもしれません。

IT化が進み、一見便利になったとはいえ、人の心は離れたままです。

存在の不安定さを、コンクリートでかためることはできないでしょう。

そこでこれからの人間にできることは何であるのか、という論点にもどってきます。

この文章を読んで、あなたの感想を是非800字程度にまとめてみてください。

あるいは「コンクリートと木」という、二項対立を題材にした小論文にまとめてもいいですね。

何が本当にこれからの世界を形作るグローバルな建築技術なのか。

ぜひ、この機会に考えてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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