【俳句・縮み志向の極致】松尾芭蕉の俳句に宿る美の魂を知る【日光】

縮み志向の極致

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は芭蕉の俳句について考えましょう。

古典を本格的に習い始めると、だいたい文法でつまづきますね。

その難解さは、口語文法の比ではありません。

助動詞の数や用法、さらに敬語の種類など、覚えなくてはならないことが山積しているのです。

特に平安時代の文章は主語の省略されたものが多く、理解不能に陥ってしまいます。

かなりショックなのは間違いありません。

ところが2学期になって、江戸期の文学を学び始めると、比較的に理解がスムーズになるのです。

使用している表現は難しいのですが、現代の言葉に近い感覚を覚えます。

松尾芭蕉の『奥の細道』を読むたびに、その美しい言葉のリズムが、身体に溶け込んでいくようです。

漢文と和文の混交が、みごとに結晶したものとしかいえません。

もちろん、現代の日本語と全く違います。

しかしそこには親和性があるのです。

俳句は室町時代に流行した連歌から発展したものです。

最初は言葉遊びの要素が強いものでした。

そこに登場したのが松尾芭蕉です。

彼は人間の真実にせまる文芸にまで、俳句を昇華させたかったのです。

北村季吟(きぎん)に師事して俳諧の世界に入りました。

代表作は誰もが認める『奥の細道』でしょう。

他にはそれ以前にまとめた紀行文『野ざらし紀行』などもあります。

しかしなんといっても『奥の細道』の豊かさには数歩抜けでたものがあります。

この作品で松尾芭蕉が歩いたとされる距離は、約2400キロメートルと言われています。

約150日間かけて歩いた記録です。

学校では「序段」の他、「白河の関」「平泉」「立石寺」を学ぶことが多いです。

この本は声に出して読んでほしいですね。

読後の気分は実に爽やかです。

今回は「日光」の段を学びましょう。

本文

卯月朔日、御山に詣拝す。

往昔、此御山を「二荒山」と書しを空海大師開基の時「日光」と改給ふ。

千歳未来をさとり給ふにや。

今此御光一天にかゞやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

あらたうと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

剃捨て黒髪山に衣更

曾良

曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく。

このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ惣五を改て宗悟とす。

仍て黒髪山の句有。

「衣更」の二字力ありてきこゆ。

廿餘丁山を登つて瀧有。

岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。

岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳(もうしつた)え侍る也。

暫時は瀧に篭(こも)るや夏(げ)の初

現代語訳

四月一日、日光山に参拝しました。

その昔、この御山を二荒山と書いたのを、勝道上人が延暦年間に開山した折、日光と改められました。

千年後の未来を予見なさっていたのでしょうか。

今、この家康公を祀る東照宮の御光は一天に輝いて、恩沢はあまねく溢れ、人民安堵の暮らしは平穏そのものです。

なお、はばかることが多いので、筆を置きました。

あら尊(とう)と青葉若葉の日の光

名も知れぬ万葉の人の歌

ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも

などに詠まれた黒髪山は、霞がかかって雪がまだ白く残っています。

剃り捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ)

曾良

曾良は、姓は河合、名は惣五郎といいます。

芭蕉庵の近くに家があり、私の家事を手伝ってくれていました。

この度、松島、象潟を眺めに共に行けることを喜び、同時に、旅の苦労をいたわってくれようと、旅立ちの朝、髪を剃って墨染の僧衣に姿を変え、惣五を改めて宗悟としました。

それゆえ、黒髪山の句があるのです。

衣更の二字には力強さを感じます。

二十町余り登ると滝がありました。

岩洞の頂きから飛流し、百尺千岩の深碧の淵に落ちています。

岩窟に身を潜めて入り、滝の裏から見ることから、裏見の滝と言い伝えられているのです。

しばらくは滝に籠もるや夏(げ)の初め

曾良という弟子

「あら尊(とう)と青葉若葉の日の光」という俳句は大変有名なものの1つですね。

日光を語るときに、必ず使われます。

直訳すれば、ああなんと尊いことだろう、日光という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ、というものです。

その直前に置かれた文章もすごいです。

今此御光一天にかゞやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。

猶憚多くて筆をさし置ぬ、というものです。

家康礼賛の表現が連なっています。

かなり強烈です。

徳川の治世をここまで絶賛したというのは、どういうことなのでしょう。

謎ですね。

これには芭蕉の生きた時代という背景もあると想像されます。

時は元禄2年でした。

江戸文化が花咲き、新しい文化が次々と芽生えたのです。

270年間にわたる徳川の治世の中で、もっとも政治がうまくまわった時代といってもいいのではないでしょうか。

浮世絵草子の井原西鶴、浄瑠璃の近松門左衛門、竹本義太夫、歌舞伎の初代市川団十郎、初代坂田藤十郎など、その活躍は実にまばゆいほどです。

町人にとって最もいい平和な時代だったといえます。

徳川の世でよかったとしみじみ思ったのでしょうね。

もう戦乱の世には愛想がつきていたのです。

もう1つ、付け加えたいのは同行者、曾良のことです。

彼の日記を読むと、芭蕉は実に長い間、この旅行記のために推敲を加えたようです。

事実と違うことも、作品の出来をよくするために、芭蕉は書き換えたのだと記しています。

長い旅であったにも関わらず、師弟の間は非常に穏やかでした

深川を出発する時には髪をおろして坊主姿になったのです。

思うところがたくさんあったのでしょうね。

是非、声に出して読んでみてください。

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とてもいい気持になれますよ。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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