【日本文化の雑種性・加藤周一】代表的な日本論の構図を頭に叩き込む

雑種文化論

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本を代表する評論家、加藤周一氏の「雑種文化論」を取り上げます。

高校の教科書には必ず所収されていますね。

いわゆる日本論、日本人論の根幹をなす評論です。

発表されたのは戦後10年ほどしてからでした。

論点は非常にわかりやすいものです。

日本の文化は根本から雑種であるというのが、彼の基本的な論理です。

戦争後、日本人の多くは自分たちのよって立つ場を築くことに苦しんでいました。

西洋、日本という二項対立だけでは、解決できない問題が多数あったからです。

加藤はそれを観念的に純粋化しようとする行動には、意味がないと考えました。

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その背景にはある思想とは何か。

それは純粋種に対する劣等感でしかないのではないかというのです。

今のまま劣等感から進んだとしても、本質を捉えることはできないと考えました。

真相は文化の雑種性そのものにあるのではないかと、結論づけたのです。

そこに積極的な意味を認めようとしました。

日本人が、真実をありのままに直視し、そのまま生かしてゆくとき、どんな可能性が広がるのか。

以後、この「雑種文化」という表現は多くの場所で取り上げられるようになっていったのです。

日本人は文化論が大変好きです。

自分の国を特殊なものと考えているようです。

多くの人が著名な本をたくさん発表しています。

土居健郎『甘えの構造』、ルース・ベネディクト『菊と刀』、中根千枝『タテ社会の人間関係』などは今や古典といってもいいでしょう。

日本の立ち位置

近年もたくさんの人が日本論を上梓しています。

文化、経済、政治など、それぞれの視点からまとめられたものです。

新しい本が出ると、それを課題文にして、「あなたの考えたことを書きなさい」といった小論文の設問が繰り返されています。

今や、日本はかつてのように勢いのある国家ではありません。

極東の小さな国にすぎなくなりつつあるのです。

その中でどのように人々が暮らしているのか、ということを考察することの意味は何でしょうか。

一言でいえば、未来への可能性の有無です。

今後、この国にポテンシャリティがあるとすれば、それは何かということです。

日本人の精神構造を知るためにも、文化論から入っていく方法は、大きな意味を持ちうるでしょう。

教科書に所収された文章の一部を掲載します。

じっくりと内容を読み取ってください。

mohamed_hassan / Pixabay

同時に、他の日本文化論と読み比べてみてください。

入試では実によく文化の問題が出題されます。

基本は西洋対日本の二項対立です。

石の文化と木の文化の違いです。

あらゆる芸術のジャンルからテーマを引き出し、その違いを分析するのです。

しかし近年はこの対立関係を超えて、日本そのものが世界の中で生き残る手段として、何があるのか。

特にサブカルチャーなどを題材にした問題もよく出ます。

アニメやゲームが日本を代表する文化だという論点もよく見かけます。

さまざまな視点から出題されますので、それらを見極める目を養ってください。

本文

西洋見物から日本へ帰ってきた時に、私の考えは原則の上でも少し変わった。

そのずれは、日本人は日本人の立場に立たなければならぬという原則、つまり日本の西洋化を目標にして仕事をしても日本の問題は決して片づくまいという私の考えの原則を立てたうえで、それでは日本人の立場とは何かというその内容にかかわっている。

西洋見物の途中で私はその内容を西洋の影響のない日本的なものというふうに考えた。

そう考えたのは西洋の影響が技術的な面を除けば精神の上でも文化の上でもいたって表面的な浅薄なものにとどまっていると考えたからである。

しかしそれは間違っているということが私の場合には、誇張して言えば、日本へ帰る船の甲板から日本の岸を初めて見たその瞬間にはっきりしたのである。(中略)

港の桟橋も、起重機も、街の西洋式建物も風俗も、すべて日本人が自分たちの必要を満たすために自らの手でつくったものである。

シンガポールの西洋式文物は西洋人のために万事マルセーユと同じ寸法でできているが、神戸では日本人の寸法に合わせてある。

西洋文明がそういう仕方でアジアに根を下ろしている所は、恐らく日本以外にはないだろうと思われる。

マレーと違うし、インドとも中国とも違う。

その違いは、外国から日本へ帰ってきた時、西ヨーロッパと日本との違いよりもはるかに強く私の心を動かした。

つまり英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ。(中略)

純粋日本化にしろ、純粋西洋化にしろ、およそ日本文化を純粋化しようとする念願そのものを棄てることである。

英仏の文化は純粋種であり、それはそれとしてけっこうである。

日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまたけっこうである。

たとえそれが現在けっこうでないとしても、これからけっこうなものに仕立ててゆこうというたてまえに立つのである。

漱石の開化論

加藤周一は冷静に日本と西洋の違いを見ていますね。

伝統的な日本が次第に西洋化した日本へ移っていったということではないと言い切っています。

つまり日本文化の特徴は、その2つの要素が深い所で絡んでいるというのです。

どちらも抜き難いから、両者が複雑に絡み合って全く別次元のものを作り上げた。

この文章を読んでいると、夏目漱石の発言と重なるところが多々あることに気づかされます。

『現代日本の開化』という講演の内容がそれです。

日本の現代の開化は外発的で、外から無理押しに押されて否応なしもたらされたものであると述べています

それに対して西洋の開化は内発的であると断じているのです。

つまり日本の近代化は上滑りの開化であり、涙を呑んで進んでいるにすぎないという認識です。

近代日本はつねに外圧にさらされて、身動きができず、仕方なしに先へ進んできた要素を持つという鋭い意見です。

その後何度かの戦争を経て、加藤周一が見た風景はどうだったのか。

戦後の不安の中から、日本人が自らのアイデンティティを手にしようとしたとき、ふと頭をよぎったのが外発的でも内発的でもない、「雑種」という概念ではなかったかと思うのです。

日本の宿命をかなり前に予見していた漱石は、明治の限界を悟っていました。

ちなわち、西洋の影響が技術的な面を除けば精神の上でも文化の上でもいたって表面的な浅薄なものにとどまっていると考えたからなのです。

その地平を乗り越えるにはどのような考え方が必要なのか。

加藤は悩んだと思われます。

彼は西洋の街を眺めました。

当然、東京にある西洋式の街とは似ても似つかぬものだったのです。

そこで、日本の風土と古い歴史とに根ざしたものの考え方や感受性、また風俗・習慣・芸術の全体に対し自覚的にそれを取り上げようとする心の動きが起こりました。

なんとかして1つの体系を作り上げたかったのです。

その1つのアイデアがまさに「雑種文化論」でした。

苦しい中から、真剣に探し続けた結論です。

ポップカルチャー全盛の現代においても、この考え方は決して古びていません。

その意味で、まさに慧眼のなせる業だともいえるでしょう。

ぜひ、この機会に加藤周一の著書を読んでみてください。

個人的には『羊の歌』を勧めます。

ここまでナイーブな青年の心を綴った文章はないのではないでしょうか。

彼のおかれた境遇が実によくわかります。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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