【私たちの望むものは】歌手・尾崎豊とは何者だったのか【没後30年】

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尾崎豊

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

尾崎豊が亡くなってから、今年で30年。

早いものですね。

1992年4月25日。

彼は26歳で亡くなりました。

不思議な人です。

何年かの周期でブームが来ます。

忘れていない人が大勢いるという証拠でもあります。

全裸で死んでいるのが発見されてから既に30年。

なぜ彼を思い出す人がいるのか。

熱狂的なファンは今も尾崎の命日に集まり、自分達の太陽が消えたことを再確認しています。

そこまで若者をひきつけるものとはいったい何なのでしょう。

忘れもしません。

ぼくが最初に尾崎豊の歌を聴いたのは、もう35年ぐらい前のことでした。

生徒が試験の答案の裏に『卒業』という彼の代表的な歌をかきなぐってきたのです。

ぼくはそれを読んだ瞬間、この生徒に会いたいと思い、すぐに連絡をとりました。

当時図書委員会で新聞を作っていましたので、すぐにこの詩を一面トップに載せたいと思ったのです。

しかし、その生徒はこれは自分で書いたものではなく、尾崎豊という人の歌だと胸をはって言いました。

何度卒業したら本当の自分になれるんだというまっすぐなメッセージは、当時の青年達の息苦しさをそのまま伝えていました。

時代の寵児

あれからほんのわずかの間に彼は新しい時代の寵児となりました。

そしてあっけないほどに若くして亡くなったのです。

あの当時、修学旅行に行くと、ずっと『15の夜』や『卒業』を聴いている生徒の姿が目立ちました

あの時の様子は今もはっきり覚えています。

みんな自分がどこへ向かって生きていったらいいのか。

皆目わからなくなっていたのです。

生徒たちは大人に反抗し、社会に反抗し続けていました。

それでも自分を探し続けなければいけないという焦りにも似た衝動が強かったように感じます。

そしてブームが10年くらいの周期でやってくると、次の世代の若者たちが彼の歌に耳を傾けます。

ある人によれば、彼の歌をむしろ癒しの曲として聴いているのではないかといいます。

この事実をどのように考えればいいのでしょうか。

現代は全てにわたって管理が行き届いた時代です。

若者たちはある意味での諦念を持ち始めていると指摘する識者もいます。

あるいは諦らめなどというレベルではないのかもしれません。

むしろそれを突き抜けた妙な明るさかもしれないのです。

多くの青年たちは、どこへ向かって進めばいいのかという焦りをもう持っていないようにも見えるのです。

視線が外に向かわない。

自分の世界の中で満足できるのなら、それで十分だという発想です。

多くを望むこともなく、それでいて親ガチャなどという不思議な表現をSNSで発します。

どの階層に自分がいるのか。

これからの世の中がどうなるのか。

考えれば考えるほど、わからなくなることばかりです。

それならば、いっそ明るく生きようかというのかもしれません。

プロテストソング

かつてプロテストソングが一世を風靡した時代がありました。

ベトナム戦争が始まって次第に泥沼化していった頃です。

岡林信康は『わたしたちの望むものは』と絶叫しました。

しかし望んだものは手に入ったのでしょうか。

その答が今また問われているように思います。

岡林と同時代の歌手、井上陽水が出したリバイバル・アルバムが大変な売れ行きだったという話を聞いたことがあります。

「花咲く娘達は……」とかつてタイガースは歌いました。

その後から出た、尾崎豊の詩と、どこかに接点があるのでしょうか。

truthseeker08 / Pixabay

彼の紡ぎ出す歌詞には激しさとともに甘さもあります。

尾崎はまだ確実に生きているのです。

I love you

この歌が音楽の教科書に載っているのを見た時には、驚きましたね。

サザンオールスターズの『tsunami』や井上陽水の『少年時代』をみた時も、ある種の驚きはありました。

しかしそれよりもより深いところで、なるほどそういう時代になったのだと感じたのです。

この詩には都会の隅に捨て去られた男女の意識が語られています。

自分の存在価値をなんとか取り戻そうとして、必死になっています。

むしろ痛々しさを感じるくらいです。

全ての人に祝福されたワケではありません。

しかし二人の中で、愛情は完結しているのでしょう。

それを必死に歌い上げているところに切なさを感じます。

メロディもきれいで、尾崎豊という音楽家の才能を強く感じます。

機会があったら、あらためて聞き直してみてください。

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