【アメリカの大学】宇多田ヒカルがコロンビア大学に入った理由

学び

アメリカの大学

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はアメリカのコロンビア大学に入った1人の歌手の話です。

宇多田ヒカルさんのことです。

御存知ですよね。

コロナの蔓延で留学も思うようにできません。

国際学部のある大学などは、本当に困っているようです。

カリキュラムの中に半年から1年間の留学が含まれているというケースも多いのです。

しかしそれもままなりません。

元々、日本は島国です。

同質の人間が肩をよせあって生きています。

あまり違う文化の人と暮らすということもありません。

それだけに留学の持つ意味は大変大きいのです。

とにかく違う人たちと同じ空間と時間を共有することの意味は想像を超えています。

自分ではこれでいいだろうと思っても、簡単には通用しません。

きちんと理由を示して、相手に納得してもらわなければならないのです。

それが面倒だからというので、内向き志向になっている学生も多いです。

もちろん、言葉の問題もあります。

英語の特性はYesNoをはっきりといいます。

言語の構造として主語がありすぐに動詞があります。

その間に否定語が入れば、これはNoなのだとすぐにわかるのです。

しかし日本語は最後まで聞かないと、賛否がわかりません。

かなりあいまいな言語です。

省略も多いです。

相手との関係が密であればあるほど、ほとんどを省略ですませてしまう傾向が強いのです。

英語ではそれができません。

現在、そういった環境に身をおくことができないのです。

1冊の本

小山内大というジョージア南大学の准教授が書いたこの本はもう随分前のものです

著書の中で彼はアメリカの大学がどのような仕組みになっているのかを詳しく説明しています。

アメリカは真に実力のある優秀な人が地位を掴むというのが基本的なスタンスです。

またなぜノーベル賞受賞者がこの国に集中するのかという秘密についても言及しています。

アメリカでは入試のための特別な勉強というのは必要ありません。

日常的な日々の積み重ねが必須です。

多くの大学がSAT(Scholastic Assessment Test)やACT(American College Test Program)の受験を義務づけています。

必要なのは今の学力より将来の伸びしろです。

もちろんアメリカでも有名な大学に入るのは大変です。

しかしペーパーテストで全てが決まるワケではありません。

現在、日本で行われているAO入試をもっと厳格にしたものだと思ってください。

そこでは高校時代の経歴なども審査されます。

委員会活動や、生徒会活動などだけでなく、クラブチームでの様子、ボランティア活動、授業などへの貢献度などあらゆる側面をチェックします。

さらに論文などを審査し、論理的な思考力の有無を確認します。

アメリカは学校歴だけを重視する社会ではありません。

それももちろん大切ですが、何を勉強し、何がこれからできるのかをチェックするのです。

どこの大学をでたからといって、それだけが一人歩きをする社会ではありません。

大学中退

さらにいえば大学中退を学歴として認めない社会です。

日本なら大学中退も一つの形ではありえます。

しかしアメリカで中退は高卒を意味します。

日本の大学にはかなりはっきりとした序列がありますね。

人々はそこで「自分の分を知る」といったような儒教的禁欲を強いられる場面さえあります。

途中で大学を平気で退学することや、難関と呼ばれている大学を蹴って、まったく無名の大学へ入学するということなど滅多にありません。

しかしアメリカではそれが割合に一般的なのです。

というのも学費を親が払うという考えが全くありません。

学生は奨学金をもらえる大学をまず優先します。

さもないと学業を続けられないからです。

スカラーシップは大きな可能性を切り拓く大切なシステムです。

無名の短大からでもハーバードへ進学する意志があれば、努力はもちろん必要ですが可能性がないワケではありません。

しかし私学の学費はとても高いです。

将来どうしても学位が欲しいとなったら、有名校を出ておいた方が無難ですけどね。

日本の場合、文系では大学院を出ても、あまり優遇されません。

アメリカは大学院教育に熱心です。

修士号が基本で、学卒者の3分の1は進学します。

成績はほとんどAかBしかつきません。

もしCをつけると、教員の評価が下がります。

また大学院に入る段階で、専攻が学部の時とかわることもよくあります。

博士号取得

博士号を取得するのはやはり大変です。

その間生活をどう支えていくのかというのが難問中の難問なのです。

最近ではちょっとした職業にも修士号が必要なようです。

薄給で有名な教職でも修士と学卒では給料が違います。

また大学の教員は基本的に博士号がなければだめで、全て公募です。

日本のように出身大学の学生を優遇したりすることもありません。

もしそんなことをしたら、民主的でない水準の低い大学というレッテルを貼られてしまいます。

最近では日本の大学の大学院をやめてアメリカに留学する人もかなりいます。

というのも日本では序列の高い人に花を持たせるというおかしな風習があります。

自分の研究テーマをそっくり主任教授にとられたという信じられないようなこともあるのです。

その点アメリカでは、院生、講師、研究者、誰でもが自分の研究をそのまま発表できます。

研究の自由が保障されているワケです。

教授の顔色を窺いながら、テーマを決める必要もありません。

そのかわり、他人の書いた論文を盗用したりしたら追放され、以後研究生活は送れないという厳しさが常についてまわります。

元の文の筆者、文献名、出版年などをつねに明らかにする必要があるのです。

また引用できる資料も過去10~20年以前のものは受け付けないという姿勢もあります。

これをきちんと守れない人は大学にはいられません。

ここにノーベル賞の秘密もあるわけです。

有意義な研究であることが証明されれば、東洋人であれ、黒人であれ、アメリカは排斥しません。

むしろ白人以外の人がどれだけ在籍しているのかという数字が、その大学のレベルの高さとして評価される対象にもなります。

日本人にとって難しいのは彼らの信じている自由の裏側にある、力に対する信奉です。

大学内に警察官が入ることはごく自然です。

教員は常に学生から審査される立場にあり、フレンドリーであることを要求されるのです。

面倒な課題を与えれば、彼らの評価は下がります。

その後の待遇にも及ぶのです。

シラバスにないことをすれば学部長に訴えられます。

英語には基本的に尊敬、謙譲表現はありません。

学生たちは時に驚くほどストレートな物言いをします。

それがアメリカを支えてきた精神なのです。

ファーストネームで年上の人を呼ぶということもごく当たり前のことです。

ある意味でこれに馴れることが日本人にとって一番難しいことかもしれません。

つまり一朝一夕にはなかなか本当の意味での「アメリカ人」にはなれないのです。

日本人は長い間「タテ社会」の中で生きてきました。

東洋人は序列意識を強く持つと言われています。

その場での役割の中に自らの個を沈め、場と一体化することで、アイデンティティを確立する傾向が強いようです。

しかしもうそんな時代ではありませんね。

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グローバルな志向性を持つ大学が必要な所以でしょう。

宇多田さんの生き方は明らかに、はっきりと自分の筋を通そうとするもののようにみえます。

それがおそらくアメリカで学んできた最大の財産なのかもしれません。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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