【教育・幻想】人は同じ能力を持っているワケではないという冷酷な現実

学び

教育という幻想

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

あなたは精神分析学者、岸田秀をご存知ですか。

1977年には『ものぐさ精神分析』を書いてベストセラーになりました。

彼の唯幻論はユニークですね。

この世は全て幻想だというのが論点の基本です。

もともと人間はあらゆる器官が未発達なまま生まれてきます。

親がみてくれなければとても生きてはいけないのです。

それもかなりの長期間にわたって世話をしてもらう必要があります。

その特異さが人間の精神構造にとって重大なのだと説いています。

もともと人間は本能が最初から壊れている存在なのだというのです。

そのため、ある種の幻想を抱き続けることにより、現実との接点をかろうじて繋いで生きているというワケなのです。

かつて読んだ本の中には教育に対する幻想の話も載っていました。

要約すると次のようになります。

みんなが潜在的に人間は平等な能力を持っているとする幻想を持っています。

誰にとっても勉強は苦痛なものですが、我慢して勉強すれば、そのうち役に立つという幻想もあります。

さらに一定の正しい教育方法というものがあって、それを実施すれば生徒の能力が伸び、個性が開発されるという幻想も存在します。

有害なこともあるのに学校教育は長期であるほど、無条件に本人のために有益であるとする幻想があります。

もっといえば、ある学校に通学し、卒業すれば一定の能力とか教養とか技術とかが身についているという幻想も強いものです。

議論の対象

ここに示されていることは、長い間議論されてきたことばかりです。

どれ1つをとってみてもなかなか結論が出ないものばかりだということはよくわかるでしょう。

しかしここにあらためてとりあげてみると、なるほどと唸らないワケにはいきません。

ぼくのように毎日生徒と接している人間の立場からみると、まさにこの通りだと思わずにはいられない側面が多々あります。

人間の能力は性格が違うのと同様、明らかに違うものです。

また適性も異なります。

ですから同じ進度で進む日本のような授業形態はもう完全に破産しているといってもいいでしょう。

いわゆる「落ちこぼれ」と「吹きこぼし」の問題です。

習熟度別の学習にすれば少しは解決するかもしれません。

しかし予算の問題がすぐにリンクしてきます。

小規模の単位で授業をしない限り、非効率的であることは言うまでもありません。

当然のように人件費が膨大なものになります。

現在もクラスの人数を少しずつ減らしているのはわかります。

昨今のように教員志望者が減ると、教える側の質の問題も出てきます。

一定の質を保ちながら、教師を配置していくということは容易ではありません。

どうしても人数を確保できない学校では講師に担任を委嘱するなどという現実まで起こっています。

さらに我慢して勉強するのがどの程度の意味を持つのかという問題もあります。

これもなかなかに難しいテーマです。

そもそも役に立つということの内容が、ひどく曖昧です。

ぼくは時々なぜ自分はこんなことを教えているのだろうと呆然とする時がありました。

特に古語文法などは、入試がなかったら誰も学ぶ人はいないでしょう。

しかし役にたたないのかといわれれば、そうとばかりも断言できません。

古文を読むのが好きな人にとっては苦痛ではないのかもしれないのです。

役に立つということの意味

教育方法についていえば、これが最適だなどというものはありません。

教えてくれる教師のことが好きになって勉強するということもあるのです。

メソッドということをあまり前面に出し過ぎると、授業は方法論のためのものになりがちです。

その構造をみてとってしまう生徒にとっては、あまりにも平板でつらいものでしょう。

教育の本来の目的が実用本位のものであるなら、「読み書きそろばん」の範囲で十分です。

それ以上の内容は必要がないはずです。

しかし実学だけを重視していると、その背後にある大きな学びの風景から振り落とされてしまう危険性もあります。

よく水の上に浮かぶ氷の喩えがありますね。

水に浮かぶ氷は全体の10%しか顔をみせません。

しかしその下には90%の塊が潜んでいるのです。

言葉も行動も、実はその90%の水面下にある氷の部分が主要なカギを握っているというのです。

別の言葉でいえば、教養とでも呼べるものでしょうか。

あるいは世界観といってもいいのです。

大学生の知的水準が落ちているという報告をよく耳にします。

せっかく大学に入ったのに、学ぶこともしないで遊んでばかりいるというのです。

本当に教養をつける場所として大学がふさわしいのかということも議論の対象でしょう

岸田秀は義務教育は小学校4年まででいいし、大学の卒業証書は廃止せよとまで言い切っています。

学ぶということはどこまでいっても独学を主体としたものでなければなりません。

教師はそのための水先案内人にすぎないのです。

しかし今の教育の現場はあまりにも多くの野望が闊歩しすぎています。

本質がみえなくなってしまっているような気がしてなりません。

外部漏洩

マスコミは本当に教育ネタが好きですね。

毎日どれほどの記事が流されているのか。

ここ数日のうちに起こった大学入学共通テストの外部漏洩事件などは恰好の材料でした。

今の世の中です。

簡単にスマホなどで外に問題が流れる可能性はあります。

ウェアラブル端末などを手の先などにしこめば、もっと容易かもしれません。

科挙の昔からカンニングは永遠のテーマです。

しかも新しいデバイスができれば、それに応じて可能性も広がるのです。

格差社会を作り出している背景には学歴格差などもあるでしょう。

あるいは学校間格差といってもいいかもしれません。

就職面接の足切りで大学名が公表されてしまった事件もありました。

中国や韓国でも受験の話は理屈抜きに本音が飛び交います。

日本でもそれは同じでしょう。

中学入試が過熱すると言われれば、親は動揺します。

それが全て幻想であると言い切ってしまえるほど、強くはありません。

少子化は進む一方です。

大学まで進む費用の一覧が公表される世の中です。

Wokandapix / Pixabay

医学部へ進むためには幾ら必要なのか。

全てが費用に対する効果として計算される時代なのです。

人間の能力には明らかに差があります。

現場にいると痛いほどそれを感じますね。

同じだなどということは絶対にありません。

しかしそれぞれの人間が持つ特性をうまく生かせる社会でなくてはいけません。

そのための学校でなければ、通う意味などないに等しいのです。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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