【タテマエとホンネ】自分を持ちたがらない日本人【なにげに微妙】

ノート

はやり言葉

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

仕事柄でしょうか。

生徒の使う言葉がとても気になります。

時代の感覚がそのまま飛び出してくるからです。

テレビの影響が強いのはよくわかります。

しかしそれだけではないですね。

最近はネットで使われている言葉も次々とはやります。

そして消えていくのも早い。

なんとなく悲しい気分にもなります。

それが時代なんでしょう。

少し前は「ぶっちゃけ」という表現をよく聞きました。

しかし最近はあまり聞かなくなりました。

「なにげに」はいまだによく耳にします

なにげなくという感覚が時代にマッチしているのでしょうか。

あまりそのことに首をつっこみたくはないものの、やはり気になるという気分かもしれません。

自分の意志とは無関係に向こう側からやってきたから、ついコミットしてしまったというニュアンスです。

つまり人間関係を積極的に構築する意志はないものの、しかし1人でいるのは寂しいのです。

とはいえ、あまり深く首をつっこんで疲れたくはありません。

人間は必要以上に接近するといわゆる「山嵐コンプレックス」と呼ばれる相互に傷つけ合う行動に出てしまいます。

ご存知ですよね。

ヤマアラシの棘はいつもは寝ています。

しかし自分の領域に入ってきたものには容赦なく、棘を立てます。

これ以上、近づくなという警告です。

ほどよい距離

それを避けるためにはほどよい距離を保つことが大切です。

つまり「なにげに」の関係が最も適当ということです。

それと似た表現に「……系」があります。

これは全てを明確に規定することに柔らかく拒否の姿勢を示している言葉です。

つまりこちらの系列でもありうるし、もう1つの系列でもありうる。

非常にフットワークの軽い位置に自分が立っていることをアピールできます。

生徒達はこれを実に様々な局面で見事に使いこなしています。

実によく耳にする「癒し系」という言葉などはまさにこの「…系」という表現の集大成でしょう。

癒すという感覚はどこかに甘えと安らぎを感じさせます。

これだけシステムががっちりと作り上げられてしまった社会の中で、その枠から出るのは厳しいものがあります。

そこからはみ出すための方法論も確かにあるのでしょう。

しかし具体的にそれはどんなものですかと訊かれたらあなたはなんと答えますか。

これは難問中の難問といってもいいのではないでしょうか。

多くの人間はストレスの堆積の中で、身動きがとれなくなっています。

そこへ「癒し系」と呼ばれる人間が登場すれば、格好の福音となるのです。

彼らはある意味中世に存在した道化の役まで負わされているのかもしれません。

落語の登場人物でいえば、与太郎がそれです。

どこか抜けていて、空気が読めない存在なのです。

しかし憎めない。

友達がいないワケではありません。

与太郎の出てくる噺はある意味「癒し系」の代表ですね。

ぼくも時に高座にかけます。

「孝行糖」などという話は癒し系噺の代表ではないでしょうか。

…系の威力

そこまでいかないにせよ、自分の立ち位置を曖昧なままにしておくために、この「…系」という表現は大切です。

学問の分野でも境界が今や主流です。

学際的な研究が「…系」という枠組みの中でまとめられていきます。

誰も手をつけなかった領域がまさに時代の寵児となるわけです。

つい先日、100代目の総理大臣が決まりました。

マスコミはすぐに内閣支持率をだそうとします。

昨日の新聞にも大きく載っていました。

新聞社によって隋分と数字が違うものですね。

おそらく質問の仕方によって、答えが違ってくるのでしょう。

あるいはどの新聞社のアンケートなのかによっても、微妙に答え方の違いがあるような気もします。

忖度というのでもありません。

geralt / Pixabay

「どちらでもない」などという選択肢があるとすれば、それが「微妙」にあたるのでしょうか。

生徒たちも時々そんなことを言います。

何が問題なのかと質問をすると、生徒は瞬時に「微妙」と答えるのです。

これもある意味判断停止の表現です。

自分では白とも黒とも断定したくないという感覚が明確に、ここからはみてとれます。

つねに判断を他者に依存し、自分は安全圏にいたいという心の地図なのでしょうか。

特に日本人は自分の意見をなかなか外に表そうとしない傾向が強いです。

世間を畏れているのか。

自分の考えを直接に表明することが怖いのか。

あるいは何も考えていないのか。

タテマエとホンネの社会なのです。

決断の留保

決断を留保しようとする心の底には何があるのでしょうか。

今日、誰が最終判断を下すにせよ、そこまでのレベルまで関わりたくないという心理状態が、ますます強くなっています。

今回の総裁選挙も派閥単位ではなくなったとはいうものの、自分の所属する派の代表の意向が大きく幅をきかせました。

ある意味で、これが日本人の特性なのでしょうか。

自己保存のためには、ひたすら頭を低くして目立たないように生きる。

何かの決断が必要になっても最後まで他者の意見を聞く。

それ自体は悪いことではないでしょう。

しかし同じ組織の中で順繰りに不正を見逃していったという会社の話などをきくと、悲しい気分になります。

ある意味大変危険なことですね。

多くの人間が判断することに疲れ切った時、一種の専制政治が始まるのです。

電車の内部機器の点検システムを何十年も改ざんし続けていたなどという話を聞くだけで空恐ろしいものがあります。

会社の内部でも学校でも全く同じ構造です。

判断停止を自分から望み始めた時、全ての歯車は反対に回り始めます。

大人も若者だけを批判することはできません。

誰かがちゃんと判断してくれるから大丈夫だなどといっている間に、全く違う歯車の回り方をします。

今回のオリンピック開催などもそれと似た匂いがしませんか。

微妙は決してもう微妙ではないのです。

もう1度、じっくりと考えてみてください。

最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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