言の葉のみなもと
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は言の葉の源、やまと歌について考えていきましょう。
この表現を使った有名な一節があります。
古今集の「仮名序」がそれです。
この歌集については皆さん、ご存知ですよね。
中学校で少し、高校ではかなりの数を習います。
約1,100首を収めた和歌集です。
中で百人一首などに入っているものは覚えているかもしれません。
時々ふっと一節が蘇ってきたりすることがあります。
まさに定型文学の底力です。
古今和歌集の読み方は大丈夫ですね。
「こきんわかしゅう」と読みます。
撰者は紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑の4人です。
905年にほぼ完成しました。
日本で最初の勅撰和歌集なのです。
勅撰とは天皇が選んだという意味です。
もちろん、歌人に託して選ばせたものです。
通称を古今集とも言います。
国家の繁栄や天皇の権威を示す為の文化的事業とでもいったらいいのでしょうか。
公的な作品集という性格を持っています。
和歌に限らず、漢詩を集めた勅撰漢詩集などもあります。
冒頭にあるのが、ここに挙げた「仮名序」です。
仮名で書かれた序文ですね。
当然全て漢字で書かれた「真名序」もあります。
仮名序と真名序
真名序からちょっと抜き書きしてみましょう。
あまり目に触れる機会がないと思います。
筆者は撰者ではない紀淑望だという説が有力です。
夫れ和歌は、其の根を心地に託し、其の花を詞林に発くものなり。
人の世に在るや、無為なること能はず。
思慮遷り易く、哀楽相変ず。感は志に生じ、詠は言に形る。
是を以て逸する者は其の声楽しく、怨ずる者は其の吟悲し。
以て懐ひを述ぶべく、以て憤りを発すべし。
天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人倫を化し、夫婦を和すること、和歌より宜しきは莫し
この文章を翻訳して仮名に書き換えたのがここに紹介する文章なのです。
書いたのは『土佐日記』の作者として有名な紀貫之です。
実際は少し長いので、最初のところだけを取り上げます。
高校で暗記させられた人もいるのではありませんか。
それくらい有名な文章です。
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やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
現代語訳
和歌は、人の心をもとにして、いろいろな言葉を綴ったものです。
世の中に生きている人は、関わり合うことがたくさんあるので、心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉に表わしていくのです。
梅の花で鳴く鶯、水にすむ河鹿の声を聞くと、この世に生を受けているもの全て、歌を詠まないことがあるでしょうか。
力を入れないで天地を感動させ、目に見えない鬼神をもしみじみとした思いにさせ、男女の仲を親しくさせ、勇猛な武士の心を和らげるものが歌なのです。
やまとことば
言葉の力をこれだけの表現で言い切った文章は過去にはなかったのではないでしょうか。
実に見事という他はありません。
何度もこの文章を授業で扱ったことがあります。
そのたびに、本当にその通りだなと感心ばかりしていました。
紀貫之はどうしても仮名で文章が書きたかったために、女性に仮託して『土佐日記』を書きました。
仮名というのは正式な文字ではなかったのです。
あくまでも仮の文字という意味なのです。
男性が公式に使う朝廷での文字は全て漢字でした。
しかしそれでは柔らかい心の襞が表現できないということを感じていたに違いありません。
仮名序のことばには貫之が意識していた以上に、仮名であらわす言葉に対する愛情が滲み出ています。
最近はお正月にカルタ取りをするなとどいう風景もあまり見られません。
マンガ「ちはやふる」が多くの人に読まれるようになって、復権したかなと思いました。
しかしそれはあくまでもマンガの中での話です。
和歌の特徴とは何なのでしょうか。
定型の迫力
ここでどうしても新海誠の映画「言の葉の庭」に触れなければなりません。
2013年5月に公開されたものです。
それ以降、彼の発表する映画はヒットを続けていますね。
どちらかといえば、静かで穏やかな映画です。
ストーリーの中心は男女の出会いと別れですが、その底に流れているのは万葉集の歌です。
映画の中で繰り広げられるテーマに必ず万葉集の歌が絡んで出てきます。
靴職人を目指す高校生のタカオは、雨が降ると学校をさぼります。
行き先は新宿御苑のベンチです。
靴のデザインを考えるのが大好きでした。
そこでチョコレートをつまみにビールを飲むユキノに出会うのです。
その時、彼女が口にしたのが『万葉集』の中にある柿本人麻呂の相聞歌でした
雷神の少し響みてさし曇り雨も降らぬかきみを留めむ
という歌がそれです。
相聞歌というのは恋愛の歌のことです。
雷が鳴って雲が広がり雨が降ってくれたら帰ろうとしているあなたをきっと引き止められるのにという意味なのです。
その後、2人は雨の日の午前だけ同じ場所で出会いを重ねるのです。
いろいろな事件の後、再び出会った時、万葉集の返し歌が突然登場します。
雷神の少し響みて降らずとも吾は留まらむ妹し留めば
とタカオが口にします。
この2つの歌をキーにして、ストーリーが進んでいきます。
歌がなかったら、なんと味気ないストーリーになることでしょうか。
万葉集には4500首の歌が収められています。
奈良時代末期に完成したと言われていますから、古今和歌集よりもさらに前の時代です。
飛鳥の都を訪ねると、京都の宮廷文化とは違ったおおらかさを感じることができます。
いずれにしても歌がどれほど、人々の心の内側を表現したのかということがよくわかりますね。
紀貫之が綴ったように、人の心だけでなく、鬼神の怒りさえも和らげてしまうだけの力を持っています。
もちろん、現代にも通じる大切な道具なのかもしれません。
5音と7音の持つ音の響きは日本語に最もふさわしいものだとよく言われます。
定型があったからこそ、ここまで歌は残ったに違いありません。
終わりに春と秋の歌をいくつかご紹介しましょう。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
日の光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散るのだろうか。
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける 紀貫之
桜の花が散っていった風の名残には、水のない空に花びらの余波がたっていることだ。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行
秋がやって来た、と目にははっきりと見えないけれども、風の音でそれと気付かされた。
風吹けば落つるもみぢ葉水清み散らぬ影さへ底に見えつつ 凡河内躬恒
風が吹くと散り落ちて、池の水面に浮かぶ紅葉の葉、それに水が清く澄んでいるので、まだ散らぬ紅葉が映って、水底にずっと見えている。