【新老人の世紀】生老病死の苦しみに共感できる人生こそが明日への鍵

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退職後

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

ここ数日、作家・五木寛之と円覚寺派管長・横田南嶺の対談集を読んでいます。

去年の6月に出版されたものです。

タイトルは『命ある限り歩き続ける』です。

なるほど、人間は命ある限り歩かなくてはいけません。

かつて人が生きるプロセスを「生老病死」とよく言いました。

今は「生老病痴」ではないかと五木寛之は言うのです。

ボケずに生きていくことが人生100年時代の最大関心事かもしれません。

今はボケなどと言わずに、認知症と表現します。

100から7を順番に引いて認知のレベルを計るという診断法がありますね。

やってみると結構難しいのです。

「5」ならすぐに計算できますが、「7」となると途端に厄介になります。

このスケールを開発したのが有名な精神科医・長谷川和夫さんです。

認知症診療に人生を捧げたこの医師もご自身が認知症と診断されました。

その事実をマスコミに発表したのは、それほど以前のことではありません。

どんなに頭脳をフル回転させても、脳の機能はやがて衰えていくのです。

geralt / Pixabay

悲しい現実です。

しかし誰もが認知症になるワケではありません。

何歳になってもしっかりした方はたくさんいます。

作家・五木寛之のことはよくご存知ですよね。

『青年は荒野をめざす』というタイトルの本を書いた彼も89歳になりました。

そのことにびっくりしてしまいます。

蓬髪をなびかせて、常に時代の最先端を闊歩しているという印象が強い人です。

タブロイド判の夕刊に40年以上、エッセイを連載しているそうです。

彼の小説はほとんど読んでいます。

しかしもうまもなく90歳になるという事実に驚かされます。

足の具合が悪くて医者に通ったという話もなるほどと納得させられました。

そういう年齢になったのですね。

日野原重明さん

日野原重明さんといえば、知らない人はいないでしょうね。

数年前、お亡くなりになりました。

最後まで現役の医師として活躍したのは誰もがよく知っているところです。

著書もたくさんあります。

晩年もマスコミに登場しない日はなかったです。

本屋さんにいけば、彼の著書が平積みになって並んでいました。

聖路加国際病院の名誉院長としてだけでなく、老後に、どう生きるのかというテーマの、大先達だったのです。

pixel2013 / Pixabay

1日5時間しか眠らずに、階段を2段飛ばしでのぼる100歳近い医者とあっては、メディアがターゲットにするのもごく自然なことでした。

その彼が提唱した新老人という新しい名称には、随分多くの反応があったようですね。

確かに人生100年の時代です。

退職年齢と実年齢との乖離は広がっていると言えます。

そういう意味で、身体の自由が次第にきかなくなる年になったら、どのように日々を過ごせばいいのかというテーマは実に興味深いものがあります。

65歳まで働くというのは今や当たり前です。

70歳までは普通に仕事をしていても違和感がありません。

毎日でなくても週に3回とか、午前中だけとか。

さまざまな働き方があります。

『定年後』でブレークした楠木新の本によれば、年金と仕事の合わせ技で人生の意義を知るとあります。

なるほど、合わせ技という考え方はユニークだと感心しました。

新老人

日野原重明さんの定義によれば、新老人とは次のようなものです。

① 75歳以上の人で、自立し、老後の生き方を勇気をもって自ら選択できる人。
② 過去の良き文化を次の時代に引き継ぐ役を果たす人。
③ 健やかな第2の人生を感謝して生きる人々。
④ 毎日を想像的に生き、齢は老いても日々成長を続けるシニア。

こういう人たちをさすのだそうです。

では具体的にどう日々を過ごしていけばいいのでしょうか。

日野原さんは次の3点をあげています。

1)いつまでも愛し、愛される人間であること。
2)創意をもち続け、いつも何か新しいことを考え、実行すること。
3)耐えることによって他人の苦しみにも共感できること。

どれ1つをとっても、それほど簡単なことではありません。

特に75歳を過ぎて最も難しいのは創るということです。

別の言い方をすれば始めることです。

常に吸収していくという姿勢を持たなければ、脳はすぐに衰えてしまいます。

新しいことを求めることや、それを自分のものにしていくことは、確かにつらいといえばつらいのです。

自分にはもうできないと考えてしまえば、そこですべてが終わりです。

何にでもチャレンジする心。

これが生きていく姿勢を示す原動力なんでしょう。

わかりやすくいえば想像力です。

今までやっていたことの延長線上でもよし、それ以外の趣味、道楽でもよし。

あらゆる角度から自分の本質に迫るという姿勢が必要です。

そこへ至る道のりの中にしか、新しい自分が存在しないということなのでしょう。

何歳でも

何もこれは新老人だけに限った話ではありません。

何歳であっても想像し、創ろうとしない人、始めようとしない人は、すでに抜け殻と言ってもいいのかもしれません。

かなりきつい言い方ですが、あくまでも身体が動くという条件の下での話です。

病気をして具合が悪いのに、以前と同じように動けというのはあまりに無茶です。

神にいただいた五体がまだ動ける余地のある人だったら、考えるべきテーマですね。

これからの生き方の基本として、この提唱の意味をあらためて考えてみる必要がありそうです。

しかし100歳近くになって元気でいられる人が本当にどれくらいいるのか。

これはかなり難しい問題です。

実人数はごく少数ではないでしょうか。

介護施設に何度も通った体験からいえば、実際は苦しい老後を迎えている人が多いと思われます。

きちんとした看護や介護を受けられる人の数も、どれくらいなのか。

その実数もわかりません。

しかし基本的に自立することを目指し、自分の意志で生きていくことを選択することは大切でしょう。

そのために何をすればいいのか。

これはとても難しい問題です。

認知症の研究をし続けた医師も認知症に罹ってしまうのが現実です。

どうしたら防げるのかはわかりません。

日々成長するシニアのイメージを頭の中で必死に想像し、そこへ向けて生きていく以外に道はないのでしょう。

具体的な方法論は人によって全く違うと思われます。

篤農家と呼ばれた多くの人にも憧れます。

とにかく行動すること。

まず動くこと。

そこから始めるのが最善の道だと考えます。

ネットの時代です。

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操作の仕方さえ覚えれば、情報は溢れています。

意志的な取捨選択が大切なのです。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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