【落語】人情噺・子別れはいつ聞いても泣ける究極の傑作

落語

人情噺の傑作

皆さん、こんにちは。

アマチュア落語家でブロガーのすい喬です。

今回はぼくの大好きな人情噺「子別れ」をご紹介しましょう。

今までに何度も高座にかけました。

その度にこの夫婦はいいなあ、亀吉はかわいいなあと思ってやりました。

噺家は泣いてはいけません。

時にふっと涙ぐみそうになっても、いつも大切なのは「離見の見」です。

ご存知ですか、この言葉。

いつも自分を客観的に見つめ続けるということです。

第三者の目になって自分を冷静に観察していなくてはいけません。

登場人物全てにわたって落ち着いた視線を保たなくてはならないのです。

これは能を大成した世阿弥の言葉です。

落語にも通じる大切な考え方です。

全体が親子の話ですから、子供の気持ち、父親、母親それぞれの立場から演出が可能です。

お客様も自分に一番近い登場人物に心がうつって、つい涙が出るということになるのではないでしょうか。

しかし先ほども言ったように、話者は泣いてはいけません。

全ての登場人物に目をきちんと届かせ、その関係をつねに冷静に計るのです。

それが芸というものの持っている冷酷なまでの本質だろうと思います。

子別れは本当によくできた噺です。

こういうのを傑作というのではないでしょうか。

古典落語の演目の中でも一際すぐれたものです。

初代春風亭柳枝が創作しました。

四代目柳家小さんの手を経て磨かれた人情噺です。

今では柳派に限らず、多くの噺家が演じます。

志ん生、圓生、小さん、志ん朝をはじめ、名人がみな得意演目にしました。

親子、夫婦の愛情を表現するだけに、あまり若い人ではリアリティーが出ません。

それだけ難しいということが言えると思います。

泣かせすぎると、お客は疲れてしまいます。

その兼ね合いがそれぞれの演者によって異なるところも興味を引く点なのではないでしょうか。

あらすじ

ある日、熊さんのところへお店(たな)の番頭さんがやってきます。

茶室に使う木を木場までに見に行ってきてくれと主人に頼まれたのでした。

材木のことなどなんにもわからないので、大工の熊さんに付き合ってもらおうとやってきたというわけです。

途中で熊さんの前の女房のことや、その前の亀吉の母親の良妻賢母だったお徳さんの話などをしながら木場を目指します。

すると、番頭さんが突然亀吉が向こうから歩いてくるのを見つけます。

Pezibear / Pixabay

まさかこんなところでと思ったものの、なんと本当に亀吉でした。

熊さんが亀吉に話しかけます。

今度のおとっつぁんは、おめえを可愛がってくれるか。
おとっつぁんは、おまえじゃないか。
おれは先(せん)のおとっつぁんだ。新しいおとっつぁんがあるだろ?
そんな分からない道理があるもんか。子どもが先に出来て、親が後から出来るのは八つ頭ぐらいのもんだ。

女房のお徳は独りで仕立ての針仕事をして、貧乏暮らしをしながら亀吉を育てていたのです。

熊は50銭銀貨の小遣いをやり、ウナギを食べさせてやるから明日また会おうと約束します。

家に戻り母親の手伝いをしている時、ふとお金が亀吉の懐からころがり落ちます。

大金をもっているのを目ざとくみつけた母親は子供がお金を盗んできたと決めつけるのです。

はっきり言わないと玄翁(げんのう)で叩くよと母親に泣きながら言われ、ついに亀吉はら父親に会ったことを話すのです。

翌日、亀吉は約束通りに鰻屋へ行って父親とウナギを食べていると、そこへ母親がやってきます。

母親を2階の座敷へ引き入れやっと両親が再会します。

しかし2人とも照れて他人行儀なまま。

亀吉が間に入り「元のように3人で一緒に暮らそうよ」と親を促します。

熊さんがついにお徳に頭を下げ、元の鞘に収まります。

こうやって夫婦が元の鞘に収まれるのも、この子がいればこそ。お前さん、子は夫婦の鎹(かすがい)ですね。
あたいが鎹かい、それで昨日、おっかさんがあたいの頭を玄翁でぶつと言ったんだ

これがオチになります。

元は三部作

別題として「強飯の女郎買い」「子は鎹」とも呼ばれます。

すべての通しは普通、上中下にわかれますが、上の部分を「強飯の女郎買い」と呼び、下を「子は鎹(かすがい)」と呼んでいます。

通常は中の後半部分と下を合わせて演じることが多いようです。

すべてを話すと1時間を軽く超えます。

ホール落語でも最後の親子の愛情に絡んだ「子は鎹」の部分を演ずることが多いです。

下げに出てくる「鎹」という建築資材そのものが、今日あまり使われなくなったので、つらい部分があります。

知っていますか。

今は全くなくなりました。

木と木をつなぐための金属の部材です。

これがサゲに関わってきますので、説明が必要な時代になりつつあるのかもしれません。

しかし多くの噺家はそのままやっています。

ここを説明しても、あまり面白くありませんのでね。

玄翁(げんのう)を金槌にしている噺家も見受けられます。

この噺をしていると、つい感情移入が強くなりすぎると感じることがあります。

その時はむしろ、抑え気味に進む方がうまくいくようです。

子供の亀吉をあまりにもこまっしゃくれた表現にすると、あどけなさがなくなります。

眉間の傷を父親の熊さんに見とがめられるシーンでも、むしろ子供はそれが既にすんでしまっ
た事件だという表現にした方が自然に感じられます。

実は母親がいつも仕立て仕事を回してもらっているところの息子にいじめられ、木刀で眉間をなぐられたのでした。

しかしそのことを亀吉は誰にも言いません。

その事実を父親が知った時、苦労をかけてすまなかったと心から詫びるシーンにつながるのです。

男は泣いちゃいけねえと言いながら、一番父親が涙を流します。

Pexels / Pixabay

この場面の演出もなかなかに難しいのです。

あまり悲劇的にやってしまったのでは、この噺が台無しになります。

そんなことはもう過去のことなんだとあっさりやった方が、むしろお客さんの心にしみるということなんでしょう。

小三治はそのようにしています。

また番頭が木場へ熊さんを連れていく途中で、亀吉に出会うという設定も、ご隠居さんと番頭さんがあらかじめすべて知っていて、連れ出したとする解釈もあります。

事実そのように演じている五街道雲助の型もあります。

よく考えると、確かにそうかもしれません。

そうでなければ、別れた子供にすぐ会えるという演出もおかしいですからね。

きっとそうなんでしょう。

最近はぼくもこの解釈に傾きつつあります。

きっとこのあたりに住んでいると聞いて、ご隠居は番頭をわざわざ木場まで熊さんを引っ張りだしたという方が、理にかなっています。

どう考えても偶然とはいいきれません。

どちらがいいのかは、意見の分かれるところでしよう。

やはり全くの偶然とは思えません。

隠居も番頭もあらかじめ、お徳という以前の女房の暮らしぶりを耳にして、巧みに仕組んだということも十分に考えられます。

しかしそのことを、噺の中で臭わせる必要があるのかどうか。

ここはこの噺の根幹かもしれません。

いずれにせよ、名作には間違いありません。

稽古をしていても、いいなとしみじみ思います。

こういう噺を素人ながらやれるということの幸せを、日々かみしめています。

父親の愛

俗に父性愛と言います。

あまりに大袈裟な表現はいけません。

Free-Photos / Pixabay

おとっつあん、靴買っていい、このお金で。あたいだけなんだ、下駄で学校行ってんの。
ねえ、靴買っていい。
ああ、いいよ。
おまえの学校のもんだったら、おとっつあん、何だって買ってやる。
嘘だい、昔は買ってやるっていって、何にも買ってくれなかった。
親なんてものは苦労してみるもんだな。

こういう2人の会話がぼくは好きです。

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なにげない親子の情愛、特に父と子供の関係がほのぼのとしていて、話していても嬉しくなります。

父親にもらったお金が着物の裾から落ちるシーンには母親の愛情がみえます。

おっかさん、自分の食べるものを少なくしたって、おまえにひもじい思いをさせたことがあるかい。
人のものを盗むような子に育てた覚えはないよ。

さらに夫婦の愛情を描いたシーンとしては…。

おっかさん、おれのことをなんか言ってたか。
うん、おとっつぁんはすごくいい人だって。ただお酒がいけないんだって、お酒さえ飲まなければあんないい人はいないんだって。

こうしていくつもの場面を重ねながら、夫婦が1人の子を間にはさんでヨリをもどしていく様子が細かく語られます。

何度やっても親子というものの、血のつながった力強さを感じさせる噺です。

前半部分のただ酒に酔ってどうしようもない熊さんと、最後にでてくる熊さんの対比を知るためには、全編を通しで聞かなければなりません。

長大な噺ではありますが、実にしみじみとして、いい噺です。

繰り返しますが話者は泣いてはいけません。

Radoan_tanvir / Pixabay

あくまでも冷静に自分を見つめながら、最後まで語り終えます。

アマチュアでも稽古すればできます。

落語はいいものですね。

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子供を虐待し殺してしまう親に是非聞かせてやりたいくらいです。

かくばかり偽り多き世の中に子の可愛さは誠なりけり。

最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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