【内と外・多様性】靴を脱がない文化を持つ人達との共生に向けて

ノート

何が常識なのか

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

世界は広いですね。

日本みたいな島国で通じる作法が別の国へいくと、全く違うなんてことはよくあります。

当たり前の話ですが、日本ではだいたい家にあがる時、靴を脱ぎます。

しかし靴を脱がない国も多いと聞きます。

たまたま授業でそんな文章を読んだことがあります。

そこで生徒に訊いてみると、中国人の家庭では半々でしたね。

韓国人の家庭では靴を脱ぎます。

アメリカ人やオーストラリアで生活していた生徒達は、その家の習慣によって違っていたと言います。

世界は広いのです。

日本人にとって当たり前のことが世界でそのまま通用するワケではなさそうです。

以前勤めていた高校には上履きがありませんでした。

生徒は土足のまま、校舎にあがります。

異動した当初、その光景が異様に見えました。

何人かの生徒に感想を訊いてみると、面倒臭くなくていいという返事が多かったです。

なるほど、これも違う文化を多様に受け入れるということなのかもしれません。

担任をしていると、上履きの後始末にはかなり悩まされました。

とくに卒業式が終わって数日後に待っている仕事の1つが、この上履きの後片付けなのです。

大きな袋に下駄箱から生徒が置き去りにしていった上履きを入れていきます。

これが最後の担任の仕事といっても過言ではありません。

ロッカーの中身を全部捨てるのとあわせてかなりの重労働でした。

そういう意味で、1足制の学校はとにかく楽だったですね。

ウチとソトの区別

日本人は内と外との区別を明確にしたがります。

家に帰れば、だいたい部屋着に着替えます。

もちろん、靴も脱ぎます。

土足のまま、家に上がるという習慣はまずないでしょう。

うちの会社、うちの学校という表現は、逆にいえば、外の人間に対してどこか冷たい響きをあわせ持っています。

高温多湿の風土だからこそ、床を高くしたということもあるのでしょう。

それが玄関と床との段差にもなりました。

その差が人々の意識の底にこびりついて離れないのに違いありません。

外国人の受け入れなどに対しても、日本は大変厳しい側面を持っています。

EU諸国内の現状などをみていると、国境があることをあまり感じません。

ユーロが普及する以前は国境の駅に列車がとまる度に両替をしたものです。

今では信じられない光景です。

国と国の境がないというのが、ある意味で新鮮でしたね。

日本は周囲が全て海です。

そういう意味ではかなり特殊な国なのだと感じます。

いつも海を越えて行かなければ外へ出られない。

それに比べると、ヨーロッパはほとんど1つの国みたいなもんです。

しかしそれを上手に切り盛りしていくのは、並大抵のことではありません。

EU離脱などという政治の現実をみていると、国家とは何かとあらためて考えさせられます。

逆に今の日本の状況は周囲を海に囲まれているこの国の特殊性ということから類推できるでしょう。

あまりにたくさんの外国人が押し寄せたら、日本の労働環境が一変するという状況もあるのです。

インバウンドの減少

コロナ禍の中、外国からくる人の数がめっきり減りました。

観光地へいけば、これでもかというくらいいた外国人の姿が今はみられません。

商売はあがったりです。

まさに閑古鳥が鳴いています。

外国人研修生などの名目でアジアから呼び寄せていた若者の姿も消えてしまいました。

レタスやキャベツの収穫にも携わってもらったりした人達です。

彼らが来られないので、野菜を出荷することができなくなり、農家は大変困ったと聞いています。

日本語学校からも生徒の姿が見えなくなっています。

飲食関係のアルバイトがなくなったことで、生活が出来なくなってしまったのです。

コロナ禍がはやくおさまることを願うしかありませんね。

日本は出入国管理が厳しい国として有名です。

これから先、人手が足りなくなると言われている幾つかの業種でさえ、なかなか受け入れようとはしません。

rawpixel / Pixabay

ひとたび彼らを受け入れたら、日本人の就職先が奪われるという怖れがあるのでしょう。

言葉の問題もあります。

現地語や英語をベースにして暮らしてきた人にとって、日本語を学ぶのはかなり大変なことです。

ことに医療や介護関係の用語には難しい専門的なものが多いのです。

それらを習得しない限り、資格試験に合格できません。

あらゆる分野において、ウチとソトの違いが顕著です。

中にいる人間を守らなくてはならないのは当然のこと。

しかし外から新しく参入したいと考えている人々の存在も忘れてはいけないのです。

家の構造も…

ウチとソトの問題を考える時、家の玄関をちょっとイメージしてみればよくわかりますね。

外から入ってくる時は、玄関が厳然とそこにあります。

しかしいったん中に入ってしまうと、意外と内部は柔らかな構造になっています。

例えば壁、障子、襖などもそうです。

1つずつの部屋がきちんと仕切られているワケではありません。

西洋の家は厚い壁で、全ての部屋が分離しています。

しかし日本の家はどうでしょう。

襖を外したり、障子を外したりすることで大きな部屋を瞬時に創り出すことができます。

もちろん障子や襖程度では音も筒抜けです。

それでもいったん閉めれば、聞こえないものとしてふるまうという習慣を持っていました。

つまり外に対してはきついものの、内部は緩いのです。

geralt / Pixabay

これが日本人の基本的な生活のスタンスでしょう。

ソトの組織の人間にはあくまでも厳しく、ウチ側の人間には甘い。

コンプライアンスをなぜ声高に叫ぶのかといえば、それだけ十分に守られてこなかったからなのです。

内部の監査にはどうしても甘い。

しかし外には厳然たる態度をとる。

これが日本の役所や企業の在り方でした。

しかしそんなことを言ってる時代ではなくなりました。

もうゆとりもありません。

最近のマンションなどでは内部の仕切りも壁も厚くなりつつあります。

それだけに難しい舵取りが必要になってきました。

日本でも靴も脱がずに生活をする時代がやってくるのでしょうか。

世界標準が次第に音をたてて近づいてきます。

独自の文化を守りつつ辺境の国として生きるのか。

生産性の高い国として多様性にコミットするのか。

難しい選択の時がどんどん押し寄せてきている実感があります。

問題は輻輳しています。

1つずつ解きほぐしながら、共生という2文字を目指して生きていくしかないでしょうね。

実に難しい課題だと思います。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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