【学ぶ力】メンターを探す能力と愛嬌があれば伸びしろが自然に増える

ノート

学ぶ力の源は

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今日は学ぶ力の源は何かということを考えます。

新聞に「仕事力」と題して評論家の内田樹が短い文を載せていました。

面白かったです。

学ぶ姿勢のある人間は伸びるというのです。

確かにそうしたことは言えるでしょう。

何にも興味、関心のない人間には伸びしろがないのです。

その中で、彼は学ぶ力を伸ばすには3つの条件が必要だと述べています。

第1は不全感です。

別の言葉でいえば、自分が無知であるという自覚。

多くのことをこれからも学び続けていかなければならないとする飢餓感。

第2は欠如を埋めてくれるメンター(先達)を探し当てられる能力を持っていることです。

自分を一歩先へ進め連れて行ってくれる人ならば、生きていても死んでいても、全ての人がメンターになりうるというのです。

第3は素直な気持ち。

他人がどうしてもこの人には教えてやろうと思わせるだけのものを持つことです。

これを内田さんは「愛嬌」と呼んでいました。

素直な気持ちで教えてくださいと傍らに寄ってきた人を、邪険にすることはありません。

むしろ自分の持っているものをなんとかして、相手に教えてやりたいと思うのが人情でしょう。

教えてもらいたいと心の底から願えるだけの心の飢餓感をもてるかどうか、それが試されているのかもしれません。

本当に学びたいという人たちには、確かに愛嬌と呼べるものがあります。

至らないという自覚

実るほど首を垂れる稲穂かな。

よく言われる言葉ですね。

本当に偉い人はみなさん、謙虚です。

中途半端な人ほど威張りたがります。

接してしばらくすれば、すぐにわかりますね。

どうして謙虚でいられるのか。

それは自らが至らない人間であるという自覚に支えられているからです。

そうした時、人は謙虚になります。

それが愛嬌に繋がるのです。

年齢も社会的地位も、なにも関係がありません。

学びたいとする人としての根本的な欲求がなぜ美しいのか。

そこにこそ、まさにこの不思議な力が宿っているからに違いありません。

そんなことを考えながら本屋さんで立ち読みをしていたら、ある雑誌に載っていたこの言葉に惹きつけられました。

それが「愛嬌」という表現です。

おやおや、こんなところにもこの言葉が出てくるのかと思いました。

ちょっとびっくりしましたね。

教育雑誌に掲載されていた記事には、最近愛嬌のない子供が増えていると書いてありました。

テレビの番組などで、およそ子供とは思えない話し方をする場面に出会うことがよくあります。

どこか老成したような子供を見ていると、それだけでなんとなく厭だなという感情を持つものです。

以前はインタビューをすると、はにかんでしまう子供がたくさんいたものです。

最近ではそういう姿を見ることもめっきりと減りました。

一言でいえば愛嬌がないのです。

経験に裏打ちされていない世間知

どうしてそういう子供たちが増えてしまったのか。

自分も失敗をする一人の愚かな人間であるというところから、出発できていないのかもしれません。

ネットの時代を迎えて、情報が飛び交う世の中になりました。

たいていのことはネットで調べればわかります。

学校で教えられる情報より、ずっと新しい内容を子供たちは瞬時に知ることができるのです。

親たちが子供の誤りを認めようとしないのか、あるいは叱ったりする影響があるのかもしれません。

または期待値が高すぎるケース。

仕方なく彼らも自己防衛にはしった結果の集大成かもしれません。

geralt / Pixabay

俗にこまっしゃくれた子供といいますが、まさに夜遅くまで塾通いをしている子供へのインタビューくらい後味の悪いものはありません。

親の価値観をそのまま反映してしまった結果といえるのではないでしょうか。

人生を偏差値で切って捨ててしまうような発言を聞いていると、胸が痛くなります。

そんなに世の中は甘くないよとつい口走りたくなります。

かつて小児は白き糸の如しなどと言いました。

まさに親の色に染まった果ての愛嬌喪失ということであるならば、こんなに悲しい結果はありません。

知識をいくら蓄えても、それを自分の血や肉にし、さらには人間性のレベルにまで昇華させることができなければ、虚しさだけが残ります。

愛嬌なきもの

かつて清少納言は『枕草子』の中で愛嬌(あいぎょう)の少ない存在として、蠅と梨の花をあげました。

「蠅こそ、にくきもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ」という一節がそれです。

「梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず、愛敬おくれたる人の顔など見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを…」とあります。

蠅はすぐに理解できますが、梨の花はどうして興ざめのする存在だったのでしょうか。

確かに万葉集などにも梨を詠んだ歌は少ないですね。

一説には梨が「なし」に通ずるので忌み言葉として嫌われたという話もあります。

しかし本当のところはよくわかりません。

日本での評価はこのように大変低いのですが、中国では大変珍重されました。

そのことはこの一節の後にすぐ紹介されています。

よく考えてみると、愛嬌というものほど大切なものはないのかもしれません。

その人がいるだけで座がぱっと明るくなるというのはすばらしいことです。

瞬間的な反応の早さも必要でしょうが、同時にまず挨拶と笑顔のすばらしい人というのはそれだけで、十分に人の心を和ませる存在だと思います。

地頭の良さももちろん大切です。

しかし社会に出た時の武器はむしろ愛嬌の方に軍配があがるのではないでしょうか。

自分の失敗や欠点をさらけ出せるものの強さは、頭でっかちの秀才には見えないもう一つの確かな世界なのかもしれません。

だからといって、自分から愛嬌を求めていこうとすれば、それは失敗に終わるでしょう。

扱いが大変に難しいのです。

自然のままにふるまう中から滲み出てくる愛嬌。

その形を求めたいですね。

どうしたらいいのか。

本当のところ、ぼくにもよくわかりません。

ただ不全感だけは大切にしたいです。

LMoonlight / Pixabay

途上にある者としての自分を認識していれば、かならずそれが表面に出ます。

半可通ではいられなくなりますからね。

自分にものを教えてくれる人は全てメンターになり得ます。

その人物を探す目を持ちたいです。

亡くなった人でもかまいません。

教え導いてくれる人が1人でも見つかった人は幸せです。

素直でいれば、必ず見つかります。

それが次の学びに繋がるのです。

心していきたいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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