【建礼門院右京大夫集】平家の菩提を弔う女院の姿にこの世の無常が

平家の運命

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は『平家物語』で有名な建礼門院の話です。

本当の名前は平徳子(たいらののりこ)。

在世は1155年(久寿2年)から1214年(建保元年)まで。

第80代天皇、高倉天皇の中宮でした。

出家後の院号をとって建礼門院と呼ばれています。

父は平清盛、母は平時子、安徳天皇の母親です。

異母兄に重盛、基盛、同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいます。

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最後は壇ノ浦の合戦で死ぬはずでした。

『平家物語』によれば、徳子は安徳天皇と時子が入水をした後に自らも海に飛び込みます。

ところが、源氏方の武士によって長い髪を引きあげ、助けられたのです。

また同じ『平家物語』の「大原御幸」の段によれば母である時子が「一門の菩提を弔う

ために生き延びよ」と娘の徳子に命じたとされています。

どちらが本当なのでしょうか。

実際のところはわかりません。

いずれにしても愛児、安徳天皇は亡くなり、自分だけが生き残るという悲しい現実が残りました。

その後、徳子は平宗盛、平時忠らによって京都へ護送されます。

宗盛は斬首、時忠は配流となったものの、徳子は罪に問われることがありませんでした。

彼女はすぐに髪を切り出家します。

その年の7月、京都に大地震がありました。

世の中のつらいことを目の当たりに見続けた徳子は9月に比叡山の北西の麓、大原寂光院に入ります。

後に大原を訪れた建礼門院右京大夫(建礼門院つきの女房の1人)は、庵の様子があまりに

質素なことに胸をうたれます。

かつての栄華は全て夢でした。

ここに収録したのは『建礼門院右京大夫集』という本の一部です

貞永元年(1232年)頃に成立しました。

お付きの女房が書いた日記、歌などが記されています。

彼女は平資盛の恋人でもありました。

老後に自らこの作品を編纂したと言われています。

『平家物語』全体を流れる「盛者必滅」「会者定離」の思想がここにも色濃く流れています。

じっくりと味わってみてください。

寂光院へも1度は訪れてみていただければと思います。

鄙びた大原の土地に建てられた小さな庵です。

本文

女院、大原におはしますとばかりは聞き参らすれど、さるべき人に知られでは、參るべ

きやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくて尋ね参るに、やうやう近づくま

まに、山道のけしきより、まづ涙は先立ちて言ふ方なきに、御庵のさま、御住まひ、こ

とがら、すべて目も当てられず。

昔の御有様見参らせざらむだに、大方のことがら、いかがこともなのめならむ。

まして、夢うつつとも言ふ方なし。

秋深き山おろし、近き梢に響きあひて、筧の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくも

のことなれど、ためしなき悲しさなり。

都は春の錦を裁ち重ねて、候ひし人々六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへた

る墨染ぞめの姿して、わづかに三、四人ばかりぞ候はるる。

その人々にも、「さてもや。」とばかりぞ、我も人も言ひ出でたりし。

むせぶ涙におぼほれて、言も続けられず。

今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき

仰ぎ見し昔の雲の上の月かかる深山の影ぞ悲しき

花のにほひ、月の光にたとへても、一方には飽かざりし御面影、あらぬかとのみたどら

るるに、かかる御事を見ながら、何の思ひ出なき都へとて、されば何とて帰るらむとう

とましく心憂し。

山深くとどめおきつるわが心やがてすむべきしるべとをなれ

現代語訳

女院(建礼門院)が、大原にいらっしゃるということだけはお聞きしておりましたが、し

かるべき案内人がいなくては、お訪ねする手立てもありませんでした。

女院に対する深い心だけを頼りにして、無理やりお訪ね申し上げたところ、次第に近づ

くにつれて、山道の様子から、まず涙が先に流れて言いようもなく悲しくなり、御庵の

様子
お住まい、お暮らしの様子、すべて目も当てられないほどでした。

昔の御有様を拝見したことのない者でさえ、女院のこの現在のありさまを、どうして普

通のことだと思えましょうか。

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まして昔を知っている私には夢とも現実とも言いようがないのです。

秋深い山おろしの風が、近い梢に響きあって、筧の水の音、鹿の声、虫の音、どこも同

じことではありますが、私には先例のない悲しさでございます。

都におられた時は美しい衣装を着重ねて、お仕えしていた人々も六十人余りいたけれ

ど、見忘れるほどに衰えた黒染めの尼姿をして、わずかに三、四人ほどお仕えしてい

らっしゃるだけです。

その人々も、それにしてもまあとばかり、同じ言葉が口に出ます。

むせび泣いて涙にくれて、言葉も続けられないのです。

今が夢なのか、それとも昔が夢だったのかと迷われて、どんなに考えても、現実のこと

とは思われません。

かつて宮中でお見かけした雲の上の月のような女院が、このような深い山奥で暮らして

いらっしゃるお姿が悲しいのです。

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花の美しさや、月の光に例えても、一通りの例え方では満足できなかったお姿が、別人

かとばかり記憶をたどって思われます。

このようなご様子を見ながら、何の思い出もない都へと、どうして帰らなければならな

いのかとつらく思われます。

女院がいらっしゃる山深くにとどめて置いてきた私の心よ、そのまま私が出家して住む

ことができる道しるべとなっておくれ。

大原御幸

文治2年(1186年)後白河法皇が徳大寺実定、土御門通親や北面武士をお伴にお忍びで

大原の閑居を訪ねました

この時の様子を大原御幸(おおはらごこう)と呼んでいます。

味わいの深い段です。

一行が寂光院に着いた時、徳子は裏の山へ花を摘みに行って留守でした。

後白河院は「女院自ら花を摘みに行くとは痛わしいことだ」と同情します。

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すると、留守を預かっていた老尼が「修行に身を惜しんではなりません。今の運命は過

去の因果によって決まり、未来の運命は今何をするかによって決まります」と答えたと

いいます。

やがて二人の尼が山を降りてきます。

建礼門院と重衡の妻、大納言典侍でした。

彼女は後白河院の来訪に戸惑いますが、対面することにします。

自らの身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と会ったのです。

やがて自らの身の上を語ります。

この場面は有名な能「大原御幸」として残っています。

『平家物語』を題材にした能はたくさんあります。

運命に流され死ななくてはならなかった武士たちの恨みや執念を扱ったものが多いのです。

一般に「修羅物」と呼ばれています。

それに比べると「大原御幸」は大変に静かな能です。

一門の滅亡を体験した建礼門院が、2人の尼とともに寂光院で仏門修行の日々を送っています。

そこへ舅にあたる後白河法皇が訪れます。

女院は天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道のすべての体験と、わが子である先

帝の最後を涙ながらに物語るのです。

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最後に建礼門院は法皇がお帰りになるのを庵の柱にすがって見送るというのがこの能です。

いわゆる平家の修羅物とは一線を画しています。

考えてみれば太政大臣清盛の娘に生まれたことが、彼女の一生を運命づけてしまったのです。

人の世を生きることの定めとは何でしょうか。

何が幸せなのかをしみじみと感じます。

『平家物語』は没落していく一族の話です。

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しかしそこに美しさを感じる日本人の感性がみごとに隠されているのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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