【吾妻鏡・女の意地】静御前の義経に対する愛が源頼朝を激怒させた

歴史に残る名場面

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は『吾妻鏡』をとりあげます。

まるで芝居を見ているかのようです。

最も有名な場面なのです。

授業ではめったにやることがないので、ここにご紹介しておきましょう。

『吾妻鏡』(あずまかがみ)は、鎌倉時代に成立した歴史書です。

鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から第6代将軍宗尊親王まで6代の将軍記という構成でできています。

治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記したものです。

「鏡物」といえば歴史書をさします。

1番の人気はやはり藤原摂関政治の時代を描いた『大鏡』でしょうか。

その他にも『今鏡』『水鏡』『増鏡』などがよく知られています。

『吾妻鏡』は近世の歴史書といえますね。

今回取り上げるのは源頼朝の話です。

頼朝が異母弟、義経に謀反の疑いをかけ、追討の命を出したことは有名です。

奥州へ逃げようとした義経を扱った作品には有名な歌舞伎十八番「勧進帳」があります。

武蔵坊弁慶を従え、藤原氏のいる平泉へ逃れようとしたのです。

その途中、安宅の関所での一コマがまさに「勧進帳」のドラマです。

実に味わいのある舞台が名役者によって数多く演じられてきました。

弁慶と義経主従の信頼感がこの作品のテーマです。

義経は郎党や愛妾の静御前を引き連れて各地を転々としたものの、静とは大和国吉野で別れます。

その後、静は捕えられ鎌倉に送られるのです。

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文治2年(1186)鎌倉、鶴岡八幡宮に参詣した頼朝と妻北条政子は舞の名手であった静に神前で舞を披露させようとします。

しかし静はかたく拒否するのです。

再三の要望により、ついに扇を手にとり舞い始めました。

しかしその時に吟じた歌を聞いて頼朝は激怒します。

本文

静、まづ歌を吟じていはく、

吉野山みねのしら雪踏み分けて入りにし人の跡ぞこひしき

また別に曲を歌うて後、和歌を吟ず。

その歌に、

しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

かように歌ひしかば、社壇も鳴り動くばかりに上下いづれも興をもよほしけるところ

に、二位殿のたまふは、「今、八幡の宝前にて我が芸をいたすに、もつとも関東の万歳

を祝ふべきに、人の聞きをもはばからず、反逆の義経を慕ひ、別の曲を歌ふ事、はなは

だもつて奇怪なり」とて御気色かはらせ給へば、御台所はきこしめし、「あまりに御怒

りをうつさせ給ふな。

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我が身において思ひあたる事あり。君すでに流人とならせ給ひて、伊豆の国におはしま

ししころ、われらと御ちぎりあさからずといへども、平家繁昌の折ふしなれば、父北条

殿も、さすが時をおそれ給ひて、ひそかにこれをとどめ給ふ。

しかれどもなほ君に心をかよはして、くらき夜すがら降る雨をだにいとはず、かかぐる

裳裾も露ばかりの隙より、君のおはします御閨のうちにしのび入り候ひしが、その後君

は石橋山の戦場におもむかせ給ふ時、ひとり伊豆の山にのこりゐて、御命いかがあらん

ことを思ひくらせば、日になに程か、夜にいく度か、たましひを消し候ひし。

そのなげきにくらべ候へば、今の静が心もさぞあるらむと思はれ、いたはしく候ふ

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かれもし多年九郎殿に相なれしよしみをわすれ候ふ程ならば、貞女のこころざしにてあ

るべからず。

今の静が歌の体、外の露ばかりの思ひをよせて、内には霧ふかき憤りをふくむ。

もつとも御あはれみありて、まげて御賞翫候へ」と、のたまへば、二位殿きこしめさ

れ、ともに御涙をもよほしたる有様にて、御腹立をやめられける。

しばらくして、簾中より卯の花がさねの御衣を静にこそは下されけれ。

現代語訳

静御前がまず歌を吟じて言うことには、

「吉野山みねのしら雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」

(吉野山の嶺の白雪を踏み分けて、山の中へ入って行った義経様の行方が恋しいのです)

また、それとは別に曲を歌った後、和歌を吟じました。その歌では、

「しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」

(静よ静よと義経様は繰り返し私の名を呼んでくださった。苧環から糸を繰り出すように、昔を繰り返して今にする手立てがあれば…)

こんな風に歌ったので、神社が鳴り動くほどに、身分の高い者も低い者も皆、面白いと感じたのです。

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しかし頼朝殿がおっしゃったことには、

「今、八幡様の前で、舞を奉納するにあたり、当然に、我々の長く久しい繁栄を祝わな

ければならないのに、人が聞いているのもはばからずに、反逆者の義経を慕い、歌うべ

き曲とは異なる曲を歌うということは、とても奇怪なことである」

と言って、大変ご立腹なされました。

政子様がお聞きになって、

「あまりお怒りを顔にあらわしなさいますな。自分の身にとって、静御前の歌うことに思い当たることがあります。

あなたが既に流罪の人となりなさって、伊豆の国にいらっしゃった頃、あなたと私はご

縁が浅くはない状態にあったと言っても、平家が栄華を誇っていた時期なので、私の父

もやはりその時の情勢を恐れなさって、ひそかに引き止めなさいました。

しかし、それでもなお私があなたと恋情を交わして、暗い夜一晩中降っている雨さえも

厭わず、巻き上げた着物の裾もすっかり雨に濡れていながら、あなたのいらっしゃる寝

室の中にこっそり入りこんでいったものです。

その後、あなたが、石橋山の戦場に向かいなさる時、私は一人伊豆の山に残っていて、

あなたのお命が無事であろうかどうであろうかということを一日思い悩んでおりまし

た。

昼間に何回か、夜に何回か、気を失ったことさえございます。

その嘆きに照らし合わせましたら、今の御前の気持ちもそのようであるだろうと思わず

にはいられず、いたわしく思います。

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彼女がもし長年義経様と連れ添った絆を忘れておりますなら、貞淑な女性のありようで

はないでしょう。

今の御前の歌の詠みぶりは、言葉に少しばかりの想いを託し、内にはひどく迷い悩んだ

憤りをふくんでおられます

何とか憐みをお感じになって、ぜひとも味わい楽しみくださいませ」

とおっしゃったところ、頼朝はそれをお聞きになって、政子と一緒に涙をもよおした様

子で、腹を立てるのをおやめなさった。

しばらくして、御簾の中から、卯の花襲の衣を静かに下賜なさったということです。

静御前の意地

昔から兄弟間での政権争いくらい悲惨なものはありません。

どのような結果になっても、後からみるとつらいことばかりです。

義経は藤原氏を頼り奥州に逃げのびたものの、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤

原泰衡に攻められ、平泉にある高館にのぼって自刃しました。

一方の静はこの時、義経の子を宿していたのです。

頼朝は女子なら助けてやろうと思っていました。

自分がまさに清盛に助けられ、その後反逆の狼煙を上げた経験から、どんなに幼くても

男子を許すと、次は自分の身が倒されるという恐怖感があったことでしょう。

男子なら殺せと部下に命じました。

閏7月29日、静は男の子を産んだのです。

赤子を受け取ろうとした頼朝の部下に、静は泣き叫んだまま手離そうとはしません。

その先の運命が見えていたからです。

母の磯禅師が赤子を取り上げて部下、清常に渡します。

やがて子供は由比ヶ浜に沈められたといわれています。

あまりにも無残な結果でした。

それだけに『吾妻鏡』に出てくる静の舞の場面が、より一層際立って見えます。

9月、静と磯禅師は京に帰されます。

彼女の身の上を憐れんだ政子は多くの重宝を持たせたといわれています。

静御前のその後の消息は全く不明なままです。

これが歴史というものなのかもしれません。

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ここに出てくる2つの歌を味読してください。

彼女の気持ちが痛いほどわかることと思います。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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