言の葉
みなさん、こんちには、
ブロガーのすい喬です。
茨木のり子の本が売れてますね。
つい先日、NHKで彼女の番組を放送してました。
その直後から、次々とアマゾンに注文が入ったそうです。
詩人というのは不思議な感覚を持った人たちです。
言葉に対する感受性が並々ではありません。
普通の人なら脇も見ずに通り過ぎてしまう日常の言葉の中から、光りの束を一つづつ紡ぎ出していく人達なのです。
『言の葉』を読みました。
この本は前半が詩、後半がエッセイで構成されています。
詩の部分には懐かしい詩ばかりが収録されています。
あらためてこの詩人の言葉の世界が豊穣であることを感じました。
「詩集と刺繍」というタイトルの詩は実にユニークでありながら、言葉の本質をうまくついています。
ご紹介しましょう。
詩集のコーナーはどこですか
勇を鼓して尋ねたらば
東京堂の店員はさっさと案内してくれたのである
刺繍の本のぎっしりつまった一角へ
そこではたと気づいたことは
詩集と刺繍
音だけならばまったくおなじ
ゆえに彼は間違っていない
けれど
女が尋ねたししゅうならば
刺繍とのみ思い込んだのは
正しいか正しくないか
礼を言って
見たくもない図案集など
ぱらぱらめくる羽目になり
既に詩集をさがす意志は砕けた
二つのししゅうの共通点は
共にこれ
天下に隠れもなき無用の長物
さりとて絶滅不可能のしろもの
たとえ禁止令が出たとしても
下着に刺繍するひとは絶えないだろう
言葉で何かを刺しかがらんとする者を根だやしにもできないさ
せめてもと ニカッと笑って店を出る
言葉は刺繍と同じ
言葉で世界を紡いでいくことは刺繍につながるのかもしれません。
この詩の中の一節に「二つのししゅうの共通点は、天下に隠れもなき無用の長物」とあります。
まさに無用の用そのものです。
役に立つとは何のことでしょうか。
実利主義、効率主義優先の世の中にあって、詩が果たす役目はまさにそこにあるような気がしてなりません。
なんの役に立たないことでも、ちゃんとそこに存在感があればいいんです。
村上春樹も言ってますね。
小説なんてなくたって誰も困らない。
でもそれを読むと、なぜか胸が息苦しくなったり、幸福感に満ち溢れたりする。
そういうものが文学なんだというのです。
読んだからお金持ちになることもありません。
お腹がいっぱいになることもない。
しかしそこにあるだけで、生きていこうと思わせるだけの強さをもっているんです。
そういうものと関われることは幸せなことです。
茨木のり子もきっと同じ気持ちだったんじゃないでしょうか。
彼女の詩集『倚りかからず』は強い意志力に満ち溢れています。
どんなことがあっても私は私として生きていくんだという気概に満ちています。
そこが今の時代を生きる人たちの苦しさと通底するんでしょうね。
金子光晴の晩年
後半のエッセイの中では詩人、金子光晴の話が断然面白かったです。
その彼の最晩年の言葉の中にこんな一節があります。
ぼくが見舞いに行ったとき、ケロッとしてるのはたいてい治るね。
ところがぼくの顔みてほろほろ泣くのがいる。
そういうのはたいてい死んじゃう。
そんなもんでしょうか。
ぼくにはそういう経験がないので、よくわかりません。
でも言われてみると、そんな気もしてきます。
夫の遺影の前で
茨木さんの夫君がこの時、糖尿と肝機能障害で入院していたそうです。
まさにこの話の通りになり、その後すぐに亡くなってしまったそうです。
夫の遺影の前で、金子光晴はこんなことを呟いたとか。
いまは八方ふさがりだと思うかもしれないけど、その人間になんらかの美点があれば、必ず共同体が助けてくれるもんです、と。
それからしばらくして、この老詩人は鬼籍に入ったのです。
茨木さんはエッセイ集の中で、天皇制にも韓国語学習の話にも言及しています。
どれも実に味わいのある、ああその通りだと感心させられてしまうものばかりです。
感受性を干からびさせずに生きていくことのなんと難しいことでしょう。
よかったら、彼女の詩集を手にとってみてください。
必ず力をもらえます。
そういう不思議な詩人なんです。
今回、そのことをあらためて強く実感しました。
今日はここまでね。
See You Again。