しのびね物語
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はあまり多くの人に知られていない物語を読んでみましょう。
『しのびね』は、作者・成立年ともによくわかっていない擬古物語です。
タイトルを聞いたことがありますか。
高校の授業でもめったに取り上げることはないです。
この作品は鎌倉時代の前期に成立したとされる悲恋を主題とした物語です。
平安王朝物語風の作りで、少し読み始めると、すぐに『源氏物語』の強い影響を受けているのがわかります。
主題は美しい出会いと、その後の悲恋というテーマを扱っています。
あらすじは次のとおりです。
内大臣の息子の中納言がある秋の日、嵯峨野へ紅葉を見に出かけます。
その折、寂しげな草庵から聞こえる美しい琴の音に心奪われたのです。
母代わりの尼君とひっそりと隠れ住む姫君(後の中宮)でした。
中納言は姫君と契りを結び、やがて二人の間には男の子が生まれます。
しかし父である内大臣は彼を左大将の娘と政略結婚させようと目論んでいました。
中納言はその女性には愛情を感じず、姫君の元へ通い続けたのです。
そこで父の内大臣は、姫君のもとへ使者を送りつけて心無い言葉で非難し、ついに邸から彼女を追い出してしまいます。

姫君は我が子を内大臣邸に残したまま、中納言に宛てた歌を書き残したまま行方をくらませてしまったのです。
彼女は縁者を頼って身を隠しますが、ふとしたことから帝の目に留まり、見初められて寵愛を受けることとなります。
帝に深く愛されながらも、姫君は中納言への思いも断ち切れず、ただ一人「しのび泣く」日々を送っていました。
一方、中納言は姫君を必死に探し求めます。
ある日、宮中をさまよっていた中納言は、承香殿にいた帝のそばで泣き沈む女性の姿を偶然目撃し、それが愛する姫君であることに気づきます。
帝の寵愛を受けている姫の運命を知った中納言は、世の無常を知りすべてを捨てて比叡山の横川へと赴きました。
その後、帝の寵愛を一身に集めた姫君は、帝との間に皇子をもうけます。
その皇子が東宮に立てられたことで、姫君は中宮にまで上り詰めにのちに女院(しのびねの女院)と呼ばれることとなりました。
一方、中納言と姫君の間に生まれた若君も、立派に成長していきます。
若君は、幼い頃に生き別れ行方知れずとなっている父を求めて比叡山を訪ね歩き、再会を果たすのです。
父子は涙ながらに過去を語り合い、我が子に仏の道を説き聞かせるのでした。
本文
さて、殿へおはして、ことさらひきつくろひ、はなやかに御装束し給ひて、いまひとたび、上をも、またさらぬ人々をも見奉らんとおぼして、参り給へば、ただ今ばかりと思ふに、涙の落つるを紛らはしつつ、候ひ給へば、上は御覧じて、
「尽きせぬものは思はしさのみこそ心苦しけれ。」と仰せらるれば、
「しばしものへ詣づることの侍れば、やがて帰り侍らん。」と奏し給ふ。
「いづくぞ、うらやましくこそ。」とのたまはすれば
「鞍馬の方へ。」と奉して、あまり忍びがたければ、紛らはしつつ立ち給ふ。
上は御覧じて、「さらば、とく。」と仰せらるるに、長き別れとしろしめされぬぞ、あはれなる。
馬道にたたずみ暮らして、かの御局へ紛れ入り給ふ。
世の常の中だにも、別れはかなしかるべきを、なかなか目もくれて、ものもおぼえず。
「ただ候ひつき給へ。野山の末にても、かやうにて候ひ給ふと聞かば、いとうれしかるべし。
いかなる方へあくがれ出で給ふとも、女は身を心にまかせぬものにて、思ひのほかなることもまたあらば、いと本意なかるべし。
御心となびき奉り給ふと思はばこそ、恨みもあらめ。
今よりは、吾子がことをこそおぼさめ。
おとなしくもならば、殿もわが代はりとおぼして、宮仕ひに出だし立て給はんずらん。
さやうのときは、御覧じも、または見奉ることもあるべし。わが身こそ、ただ今よりほかは、夢ならずして見え奉らじ。」
とて、さめざめと泣き給へば、姫君は、
「ただいづくまでも、もろともに具しておはせよ。さらに残りとどまらじ。おくらかし給はんが心憂きこと。」と慕ひ給へば、かくてはかなはじとおぼして、
「さらば力なし。具し奉るべし。この暮れを待ち給へ。参りて、暁にもろともに出で侍らん。まづただ今はあまりに慌たたしければ、いま一度、殿の御顔をも、吾子をも見侍らん。」と、いとよくすかし給へば、あやふくて、

「ただ今、まづいづくまでも具しておはせよ。」
とて、恥のこともおぼえず、中納言に取りつきて離れ給はねば、心苦しく、かなしさせん方なくて、「すかし奉ることはあるまじ。
いづくまでも身に添ふべきものなれば、これをとどめ侍らん。」とて、御数珠・扇を置き給ふ。
いとどあやしと思ひ給ひて、せん方なくて泣き給へば、情けなく振り捨てて、いかでか出で給ふべきなれば、とかくこしらへ給ふほどに、夜も明け方になりぬ。
「はしたなくならぬほどに出で侍りて、暮れはとくに御迎へに参らん。たとへ具し奉るとも、明かくなればいと見苦しからん。またさりとて、このままあるべきならず。さやうに用意して待ち給へ。」と、まことしく言ひ教へて出で給ふ。
馬道まで姫君送り給ふに、心強くは出で給へども、これを限りとおぼせば、有明月くまなきに、立ちとどまり、「暮れはとく御迎ひに参らんよ。」
とて、御顔をつくづくと見給へば、いみじう泣きはれたる御顔の、いよいよ光るやうに白くうつくしければ、御髪をかきやりて、
「かくもの思はせ奉るべき身となりけん宿世こそ心憂けれ。いかなる昔の契りにて、身もいたづらになりぬる。」などかきくどきつつ、出で給ふ。
涙にくれて、さらにいづくへ行くともおぼえ給はず。
姫君は、この暮れにはとおぼして待ち給ひける、御心のうちぞはかなかりける。
中納言、殿へ参り給へば、いつよりもはなやかにひきつくろひ給へるを、殿・母上は、いとうつくしとおぼしたり。
親たちに見え奉らんも、ただ今ばかりぞかし、もの思はせ奉らんことの罪深く、いと恐ろしけれど、まことの道に入りなば、つひには助け奉らんと、心強くおぼし返す。
若君の、何心なく走りありき給ふぞ、目もくれてかなしくおぼさるる。
わが方へおはして、御身のしたためよくして、姫君の御方へ文書き給ふに、涙のこぼれ出でて、文字も見えず。
現代語訳
中納言は帝のもとへ参上し、ことさらに身なりを整え、美しく装って、「これが最後になるだろうから、帝やほかの人々のお姿をもう一度見ておこう」と思って参内しました。
もうこれが最後と思うと涙がこぼれそうになるのを隠しながら控えていると、帝はご覧になって、「尽きることのないものは、あなたのことを思うこの気持ちだけだ。本当に心苦しいよ。」と仰せになります。
中納言は、「しばらく寺へ参詣する用事がございますので、すぐに帰ってまいります。」と申し上げました。
帝が、「どこへ行くのだ。うらやましいことだ。」とおっしゃるので、「鞍馬のほうへ。」とだけ答え、涙をこらえきれないので、気を紛らわせながら退出しました。
帝は「それなら早く行きなさい。」と仰せになったが、これが永遠の別れになるとはご存じありません。
そのことが実にしみじみと哀れなのです。
中納言は姫君の局へ忍んで入りました。
普通の夫婦の別れでさえ悲しいものなのに、この二人は悲しみのあまり何も考えられなくなっていました。
中納言は姫君に、「どうかここで待っていてください。たとえ山奥にいても、あなたが無事だと聞けば、それだけで嬉しいのです。
私がどこへさまよい出ようとも、女というものは自分の運命を自由にはできません。思いもよらない縁談などがあれば、それは残念なことです。
あなたが心変わりしたのなら恨みもしますが、そうではありません。これからは若君のことだけを大切にお考えください。

あの子が成長すれば、殿も私の代わりとして宮仕えに出されるでしょう。そのときには、私も遠くから見ることくらいはできるかもしれません。
しかし私は、今日を限りに、生きて再びあなたにお目にかかることはないでしょう。」と言って激しく泣きました。
すると姫君は、「どこへ行くとしても、私も一緒に連れて行ってください。一人だけ残ることは絶対にしません。私を置いていかれるなんて耐えられないのです。」とすがりつきます。
中納言は、「仕方ありません。一緒にお連れしましょう。それでは今日の夕方まで待っていてください。もう一度殿や子どもの顔を見て、夜明けに一緒に出発しましょう。」となだめます。
しかし姫君は信じず、「今すぐどこへでも一緒に連れて行ってください。」と言って中納言にしがみつき、離れようとしませんでした。
中納言は胸が張り裂けそうになり、「もうこれ以上だますことはできません。この数珠と扇を置いていきます。必ず迎えに来ます。」と言います。
姫君はますます不安になって泣き続けるのでした。
夜が明けるころ、中納言はようやく、「昼間に一緒では人目につきます。今夕早く迎えに来ますから、その準備をして待っていてください。」と本当らしく言い聞かせて出て行きました。
姫君は馬道まで見送りに出ます。
中納言は強い心で歩き出しましたが、「これが最後なのだ」と思うと立ち止まり、「夕方には必ず迎えに来ます。」と言って姫君の顔をじっと見ました。
泣きはれたその顔は、月明かりの中でますます白く美しく見えます。
中納言は髪をかき上げながら、「こんなにもあなたを苦しめる身となってしまった宿世が恨めしい。前世でどんな約束を結んだから、こんな運命になったのだろう。」と涙ながらに語り、ついに立ち去ったのでした。
涙で前も見えず、どこへ向かって歩いているのかも分からないほどでした。
姫君は、「今夜には迎えに来てくださる」と信じて待ち続けます。
その胸中は何とも哀れです。
中納言が邸へ帰ると、いつにもまして美しく身支度を整えているので、父母はたいそう立派だと喜びます。
中納言は、「親に最後の姿を見せるのも今だけだ。これほど苦しませるのは罪深く恐ろしいことだが、出家して仏道に入れば、いつか皆を救うことができる。」と心を奮い立たせます。
幼い若君が何も知らずに走り回る姿を見ると、涙で目がくらむほど悲しくて仕方がありませんでした。
自室に戻り、姫君への手紙を書こうとしたものの、涙があふれて文字さえ見えなくなってしまっていました。
偽りの出家
この場面は、中納言が出家を決意し、それを姫君に隠して「夕方には迎えに来る」と偽って別れる場面です。
中納言の出家の決意は固いのですが、家族や姫君との別れがつらく、強い葛藤を抱いています。
「暮れには迎えに来る」と姫君を安心させますが、本心では「これを限り」と思っています。
最後は涙で手紙も書けないほど苦しむ様子が切ないですね。

一方の姫君は別れを恐れ、中納言と離れたくないという一心です。
最後まで帰りを信じて待っている様子が実によく表現されています。
帝は中納言との別れを惜しむものの、出家の決意までには気づいていません。
さらに若君は幼いため事情を理解できず、無邪気なままです。
最も重要なのは、中納言の「出家への強い決意」と「愛する人たちと別れる悲しみ」の葛藤です。
一方で、姫君は中納言の嘘を信じて帰りを待ち続けるため、読者だけが「もう二人は会えないかもしれない」と知っている構図になっています。
この「真実を知るのは中納言と読者だけ」というすれ違いが、「偽りの別れ」という題名の意味を印象づける場面になっていることに着目してください。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
