「無名抄・鴨長明」道因入道がどれほど和歌に執着したかが実感できる逸話がこれ

歌道への執着

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は鴨長明の書いた歌論書『無名抄』をとりあげます。

この本は歌論書といっても抽象的な理論を語るのではなく、むしろ歌人の故実や逸話などを中心にまとめたものです。

歌を詠うときの心構えのようなものも、筆のおもむくままに書かれています。

ここにあげた文章は平安時代中期の歌人、道因入道(1090~1182)の数奇な生きざまや和歌への執着を紹介しています。

文章はそれほどに難しいものではありません。

一読すれば、ほぼ意味がとれます。

難しい文法表現もありません。

この文章には面白いエピソードがいくつもでてきます。

彼の死後、『千載集』に多くの歌が掲載されたのを喜び、選者である藤原俊成卿の夢に出てきて涙を流してお礼を言ったという話も載っています。

俊成自身、心を動かされてさらに2首を追加して、20首を入集したという話まであります。

それほどまで歌道に執心したということなのでしょう。

またこの本の中には書かれていませんが、別の歌会に出詠者として招待されなかったことで、主催者に抗議の歌を送ったりもしています。

道因という歌人は一風、かわったところのある人だったようです。

それだけ歌の道に熱を入れていたということもいえます。

さらに、永縁僧正が、琵琶法師に贈り物をして自作の歌をあちこちで歌わせ、風流人として評判を得たと聞いた時の逸話もあります。

道因入道も自分の歌を多くの人に知ってほしかったのでしょう。

永縁僧正のまねをして芸人を集めて自讃歌を歌えと頼んだことがありました。

しかし、そのための報酬を与えようとはしなかったので、のちに世間の物笑いになったといわれています。

本文

この道に心ざし深かりしことは、道因入道並びなき者なり。

七八十になるまで「秀歌詠ませ給へ」と祈らんため、徒歩より住吉へ月詣でしたる、いとありがたきことなり。

ある歌合に、清輔、判者にて、道因が歌を負かしたりければ、わざと判者のもとへ向かひてまめやかに涙を流しつつ、泣き恨みければ、

亭主も言はん方なく、「かばかりの大事にこそあはざりつれ」とぞ、語られける。

九十ばかりになりては、耳などもおぼろなりけるにや、

会のときはことさらに講師の座に分け寄りて、脇許(わきもと)につぶと添ひ居て、みづはさせる姿に耳を傾(かたぶ)けつつ、

他事なく聞きける気色など なほざりのこととは見えざりけり。

千載集撰ばれし事は、かの入道失せて後のことなり。

亡き後にも、「さしも道に心ざし深かりし者なり」とて、優して十八首を入れられたりけけば、

夢のうちに来て、涙を落しつつ、喜びを言ふと見給ひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて二十首になされたりけるとぞ。

しかるべかりけることにこそ。

現代語訳

この和歌の道に深く志を持っていたことについては、道因入道は並ぶ者のいない人でありました。

七、八十歳になるまで「すぐれた和歌を詠ませてください」と祈るために、徒歩で住吉へ毎月参詣していたのは、まことに尊いことです。

ある歌合せで、藤原清輔が判者となり、道因の歌を負けにしたところ、道因はわざわざ判者のもとへ行き、真剣に涙を流しながら泣いて恨み言を言ったので、

主催者もどう言ってよいかわからず、「こんな大事になるとは思わなかった」と語ったということです。

九十歳ほどになってからは、耳も遠くなっていたのでしょうか、

歌会のときには、わざわざ講師の席のそばに寄って、その脇にぴたりと座り、体を傾けて、他のことには目もくれず話を聞いている様子は、いい加減な気持ちとはまったく見えなかったといわれています。

『千載和歌集』が編まれたのは、この入道が亡くなった後のことでしたが、

死後にも「これほどまでに歌の道に志の深かった人だ」と評価されて、特別に十八首が選ばれて入れられることになりました。

すると夢の中に道因入道が現れて、涙を流しながら喜びを語るのを見たので、それをいっそうしみじみと感じて、さらに二首を加えて、合計二十首にしたということです。

まことにそうあるべきことであったのでしょう。

代表的な歌

道因入道の歌で最も有名なのは、次の百人一首にとられたものです。

思ひわびさてもいのちはあるものをうきにたへぬは涙なりけり(82番)

意味はそれほどに難しくはありません。

恋しい相手を思ってばかりで息も絶えるかと思ったものの、まだ命はあるようだ。

しかしそれでもこのつらい気持ちに耐えかねて、ひとりでに涙が出てきてしまうことだよというものです。

出典は『千載集』、本名は藤原敦頼(あつより)です。

驚かされるのは、彼が長命だったことです。

本文を読めば、誰もが90歳になった時の叙述があることに違和感を覚えるのではないでしょうか。

平安朝時代の人の寿命は30才以下でした。

90才頃まで歌合せに出向いていたという記述には驚かされます。

出家したのも80歳を過ぎてからだと言われています。

貴族として過ごした時間はかなり長かったようです。

それだけに若い頃からずっと思い続けた相手を思い出して詠ったのかもしれません。

鴨長明の主題

ここでは道因入道の奇行について書き記すというのが目的ではありませんでした。

この段の核心はあくまでも「才能よりも志の深さ」がどれほど大切なのかということです。

耳が遠くなっても学ぼうとする態度は、現在の私たちにも通じる大切な道のりです。

あまりに純粋な人となりのせいか、突飛な印象もありますが、もちろんそれは鴨長明の書きたかったことの本意ではありません。

執念に近い努力がどのようなものかを描きたかったのでしょう。

死後もなお続く「道への執着」はある意味、怖ろしいものです。

それを理解し、報いた藤原俊成の心情もあわせて読み取ってください。

文末に示された「しかるべかりけることにこそ」と言葉の意味も重いですね。

「そうなるのが当然だ」というのがその意味です。

ここまで努力した人が報われるのは当然だと肯定しているのです。

この時代の歌壇の中心にいたのは藤原俊成と藤原定家でした。

彼らのような歌人と比べると、道因入道の歌は表現の洗練さや美的完成度では劣るとみられていたのでしょう。

実際に歌合せで負けてしまう場面も描かれています。

それでもひたすらこの道を歩くと決め、たとえ愚鈍といわれても精進をやめなかったのです。

講義を学ぶ時も一番近くに陣取って、内容を把握しようと努力しました。

それだけ本気だったのです。

それが最終的には『千載和歌集』において、当初は18首の採用だったものが、夢にまであらわれたということで20首の入集を果たすことができました。

私たちも他山の石としなければならないところが、多々ありますね。

最後に彼の歌をいくつかご紹介します。

花ゆゑに しらぬ山路は なけれども まどふは春の 心なりけり

夕まぐれ さてもや秋は 悲しきと 鹿の音きかぬ 人にとはばや

いつとても 身の憂きことは 変らねど むかしは老いを 歎きやはせし

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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