作者の心情
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『讃岐典侍(さぬきのないしのすけ)日記』を読みましょう。
讃岐典侍(1079~)は藤原顕綱(あきつな)の娘で名前を長子といいます。
『蜻蛉日記』の作者で有名な藤原道綱の母の子孫にあたります。
この作品は1108年頃に成立したと言われています。
記録的な日記で上下2巻から成立しています。
この文章は堀河天皇に仕えた作者が、天皇の崩御後、実家に下がっていたところ、再び5歳の鳥羽天皇に仕えるに至ったときの記事です。
堀河天皇は白河天皇の第2皇子で、大変に笛を好みました。
優雅な性格の人だったのです。

奈良の僧たちが読む大般若経の声に合わせて吹いたり、滝口の武士の名乗りの声に合わせて吹いたりしていたといいます。
作者がご寝所の壁に貼られた楽譜の跡が残っているのを見て歌をよみ、追慕の涙にくれたのも、格別に笛に愛着が深かった生前の堀河天皇をよく知っていたからです。
九月九日の御節供が過ぎ、静かな昼下がりのことでした。
彼女は帝の命で経を書き整えています。
その折、御殿の障子絵を見て歩くうちに、壁に残った笛の譜の押し跡を見つけます。
それは、かつて掘河院が笛の楽譜を書き記された跡でした。
笛の音の押されし壁の跡見れば過ぎにしことは夢とおぼゆる
壁の跡を見ると、過去の日々がまるで夢のように思われるという深い追憶の歌です。
何気ない壁の跡には音の記憶が宿っていました。
その瞬間、亡き帝との日々がよみがえってきます。
思わず涙を袖で押さえますが、怪しまれぬよう、あくびで涙が出ましたとごまかします。
それに対し帝は、「みな知りてさぶらふ」と優しく応じるのです。
さらに「ほもじのりもじのこと、思ひ出でたるなめり」
とおっしゃいますが、これは掘河院のことを指していると悟ります。
本文
かくて、九月になりぬ。
九日、御節供参らせなどして、十余日にもなりぬ。
つれづれなる昼つかた、暗部屋のかたを見やれば、御経教へさせたまふとて、「読みし経を、よくしたためて取らせん」とおぼせられて、
御おこなひのついでに、立ちておはしまして、したためさせたまひて、局におりたりしに、御経したためて持て参りて笑はれんとぞおぼしめして、

あまりなるまでかしづかせたまひし御ことは、思ひ出でらるるに、御前におはしまして、
「われ抱きて、障子の絵見せよ」とおほせらるれば、よろづさむる心地すれど、あさがれひの御障子の絵、御覧ぜさせ歩くに、
夜の御殿の壁に、明け暮れ目なれておぼえんとおぼしたりし楽を書きて、押しつけさせたまへりし笛の譜の、
押されたる跡の、壁にあるを見つけたるぞ、あはれなる。
笛の音の押されし壁の跡見れば過ぎにしことは夢とおぼゆる
かなしくて袖を顔に押しあつるを、あやしげに御覧ずれば、心得させたまゐらせじとて、さりげなくもてなしつつ、
「あくびをさせられて、かく目に涙の浮きたる」と申せば、「みな知りてさぶらふ」とおほせらるるに、あはれにもかたじけなくもおぼえさせたまへば、
「いかに知らせたまへるぞ」と申せば、「ほもじのりもじのこと、思ひ出でたるなめり」とおほせらるるは、掘河院の御こととよく心得させたまへると思ふも、
うつくしうて、あはれもはめぬる心地してぞ笑まるる。
現代語訳
こうして九月になりました。
九日、重陽の節句のご馳走を差し上げるなどして、十日余りになったのです。
退屈な昼頃、暗部屋のほうをぼんやりと見ると、
生前、堀河帝が私にお経を教えなさるということで、「私が読んだ経を、きれいに清書してお前にやろうね」
とお思いになったのでしょうか。
勤行の機会に、わざわざ私の方へ立っていらっしゃって、約束のお経をきちんと用意なさって、私が局に下がっていたところ、
私なんかがお経をきちんと持って参上しては人に笑われるだろうとお思いになって、
ご自分の方から私の局に持ってきてくださるほど、身に余るほどまで大事にしてくださったことは、今でもはっきりと思い出されるのです。
ちょうどそんなときに、鳥羽天皇がいらっしゃって、「抱っこして、障子の絵を見せて」とおっしゃったので、思い出も夢も何もかもさめる気がしたものの、
朝餉の間の御障子の絵を、ご覧に入れながら歩きまわるうちに、夜の御殿の壁に、
生前に堀河天皇が朝晩見慣れて覚えようとお思いになった曲を書いて、貼っていらっしゃった笛の譜面が貼りつけられた跡が、壁にあるのを見つけたのが、しみじみと悲しかったです。

笛の楽譜が貼られた壁の跡を見ると、過ぎてしまった昔のことは、夢だったのかと思われました。
悲しくて袖を顔に押し当てて涙を拭くのを、鳥羽天皇が不思議そうにご覧になるので、
私が亡き父帝のことを思い出して泣いているのだということを幼い鳥羽天皇にわからせ申し上げないでおこうと思って、何でもないように振る舞いながら、
「あくびをついしてしまって、このように目に涙が浮かんだのです」と申し上げると、
鳥羽天皇は、「みんなわかってます」とおっしゃるので、
いじらしくもまたもったいなくも私と父帝のことをお思いになっているので、「どのようにご存じなのですか」と申し上げると、
「「ほ」の字「り」の字のつく人のことを、思い出していたらしいな」とおっしゃるのは、掘河院のこととちゃんとわかっていらっしゃると思うと、
おかわいらしくて、悲しみもさめてしまった気持ちがして、ふとにっこりしてしまうのでした。
こうして、九月も、何事もなく過ぎていったのです。
宿る記憶
壁の「跡」だけで、過去がよみがえるというのは言葉にしない共感の典型的な表現です。
帝は直接「父上を思い出したのですね」とは言いません。
しかし互いにわかっていたのです。
この言外の理解が、上品で実に優雅ですね。
最後に「うつくしうて、あはれもはめぬる心地してぞ笑まるる」とあります。
この笑みは喜びではなく、哀れと愛しさが入り混じった微笑と考えればいいでしょう。
この場面は、亡き掘河院をめぐる追憶が中心になった段です。
語り手が涙を隠そうとすると、「みな知りてさぶらふ」と呟き心を察してくれます。
キーワードは「ほもじのりもじのこと」という表現です。

鳥羽天皇が父帝のことをほのめかしたのです。
語り手は父帝に大切にされていました。
今の帝は、そのことを知っているのです。
ここには共通の追憶を通した静かな繋がりがあります。
「ほもじのりもじ」という言葉もユニークで面白いですね。
女房言葉というのには、いろいろな使い方があります。
いわゆる隠し言葉といっても差し支えありません。
ここでは、言葉の頭文字に「もじ」という言葉をつけて、表現を曖昧にしたのです。
表現を婉曲に言う時に使ったようです。
「かつら」の「か」に「もじ」をつけて「かもじ」。
「杓子(しゃくし)」の「しゃ」に「もじ」をつけて「しゃもじ」というようなものです。
「ひだるし(おなかがすいた様子)」の「ひ」に「もじ」をつけて「ひもじ」などと言いました。
ここでは「ほのじ」と「ひのじ」ですから「ほり」となります。
つまり堀川天皇をさしたのです。
胸にせまる内容の日記です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
