新しい教科書
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は教科書の話をさせてください。
今までに何冊の教科書を使ってきたのか。
正確に数えたことはありません。
毎年その季節になると、教科書会社から送られてくる見本を読み、教科のメンバーの意見を持ち寄って決めました。
1年生から3年生まで、教科書の種類はたくさんあります。
選択科目があるので、かなりの冊数です。
各学校ごとに決めるため、小中に比べると、スケールメリットは殆どありません。
1つの学校で数百冊の単位です。
それでも数十校とまとまれば、かなりの売り上げです。
教科書セールスの担当者は一生懸命でしたね。
薬品のセールスプロパーと似たような印象です。
新しい教科書の特徴とか、副教材の紹介とかのプレゼンテーションが必ずあります。
ちなみに昨年から新指導要領にのっとった教科書が登場しています。
ポイントは、今年から採用される新2年生用教科書です。
特に「論理国語」と「文学国語」に着目しなくてはなりません。
大半の学校では「論理国語」4単位を2年生用に使うだろうと思われます。
文学国語は脇に置かれてしまうでしょうね。
どこの会社の本にどのような文章が載るのか。
非常に関心があります。
教科書は普通の書店で販売されていません。
全く流通ルートが違うのです。
東京にも何軒か、専門の書店があります。
指導書の文庫化
自分が使っていた高校時代の教科書を今も持っている人は、それほど多くないはずです。
だいたい、その学年が終わったら、紙ごみとして処分してしまいますね。
しかしどんな教材が扱われていたのかについては、非常に興味があります。
何を習ったのか。
定番の評論や小説はなんとなく覚えています。
ところが細かい作品については、忘却の彼方です。
幸い、筑摩書房は教科書の指導書を文庫にしてくれています。
50代後半から70代前半の人が、高校生の頃に使っていた教科書から選んだものです。
タイトルは『名指導書で読む、筑摩書房、なつかしの高校国語』です。
ちくま学芸文庫というのがあるのを、ご存知でしょうか。
よほど大きな書店にいかないと手に入りません。
あとはネットですね。
小さな活字の本です。
ここまで縮小しないと、文庫本の大きさにはならなかったのでしょう。
厚みもあります。
775ページもあるのです。
内容は筑摩書房の原点といってもいいと思います。
代表的なものだけを取り上げてみます。
小説編(羅生門(芥川龍之介)
夢十夜、こころ(夏目漱石)
舞姫 (森鴎外)
随想編(清光館哀史(柳田国男)
現代日本の開化(夏目漱石)
無常ということ(小林秀雄)
評論編(失われた両腕(清岡卓行)
ラムネ氏のこと(坂口安吾)
詩歌編(永訣の朝/一本木野(宮澤賢治)
「ネロ」について(谷川俊太郎)
指導書の変化
この教科書の指導書を誰が書いていたのか、気になります。
木下順二、臼井吉見、益田勝実氏などの時代を代表する人たちです。
高校生にこれだけの作品を必ず読んでもらいたいという、熱い思いが伝わってきます。
谷川俊太郎が自作の解説をしているのも珍しいですね。
教科書には必ず指導書というものがセットになっているのは誰もが知っています。
どのように生徒に授業をしていけばいいのかという、水先案内人のような本です。
指導書は非常に高価で、何冊も買えません。
学校の経費の中でもかなりの部分を占めます。
一般の流通ルートにはないので、発行部数も非常に少ないのです。
ある学習塾などでは、これを手に入れて利用しているという話も聞きます。
本来は学校にしか配置できない本です。
最近では解説書にCDや試験問題集などがついています。
そうでないと教科書が採択されないのです。
教科書の文章などは、テキスト化して全て所収されています。
生活指導やクラブ活動などで忙しい教師にとって、これらの副教材は非常にありがたいものです。
最悪の場合、サンプルとして添付してある問題を少しアレンジすれば、中間や期末テストの問題を短時間で作成することも可能です。
多く採用されている教科書会社のものには、こうしたいわゆる「おまけ」がたくさんついています。
国語の授業は、教師個人の力量が非常に大きなウェイトを占めています。
指導書に書いてある内容を伝えるだけでは、満足してもらえるものにはなりません。
そういう意味で、技術に特化した内容のものは避けたいですね。
かつての筑摩書房の指導書を読んでいると、教材の研究に重きをおいた内容が、多く目にとまります。
作品と正対しなければ、理解できない熱い指導書だったことがよくわかります。
清光館哀史
教材の中で、柳田國男の「清光館哀史」は筑摩書房の定番です。
ぼく自身は、この作品を扱ったことがありません。
その他に同社が発掘した作品としては、太宰治「富岳百景」、清岡卓行「失われた両腕」、坂口安吾「ラムネ氏のこと」、宮澤賢治「永訣の朝」などがあります。
なぜ「清光館哀史」を授業でやらなかったのか。
今となっては悔やまれますね。
筑摩書房の教科書を長い間使っていなかったような気がします。
一言でいえば、難しいのです。
どちらかといえば、少し硬い教材が多かったです。
最近は特に論理性を重視する風潮が強いですからね。
考えさせる文章は嫌われる傾向にあるのです。
二項対立の内容で、どちらかに解答がはっきり出るといったタイプの文章が好まれています。
これも時代の流れでしょうか。
しかし本来、国語は答えが容易には出ないものなのです。
そこをさらに分け入って、自分の答えを作り出していくところに、国語力のつく土壌があると信じています。
その意味で「清光館哀史」のような、庶民の心の襞を扱った作品をなぜやらなかったのが残念でなりません。
といって、その時のぼくにそれだけの力量があったかどうか、それも悩ましいところです。
今なら理解できるのかと言われたら、それもわかりません。
その時にできる授業がどのようなものか。
自分でもチャイムが鳴って終わるまでは、いつも未知の領域なのです。
この教材については、別のテキストとして今度考えてみたいです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。