養和の飢饉
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『方丈記』を取り上げましょう。
この本は日本を代表する鴨長明の随筆です。
それと同時に歴史の証言でもあるのです。
鎌倉時代前期の1212年に書かれたといわれています。
基調となる語り口は仏教的な「無常観」です。
和漢混交文で綴られているので、リズムがよく大変読みやすいです。
声に出してみると、そのことがとてもよくわかります。
主な内容は大火や竜巻、飢饉、地震などの厄災による不安な情勢や、人生観などです。
彼が方丈の庵で過ごした日々の生活の様子もよくわかります。
今回のテーマである養和の飢饉は、養和元年(1181年)に発生した大飢饉です。
前年の降水量が少なく、旱魃により農産物の収穫量が激減しました。
その翌年にこの歴史的な飢饉が起こったのです。
被害は西日本全体に広がり、餓死者が多く出ました。
混乱は全国的に波及したといわれています。
『方丈記』にはその時の様子が詳しく纏められています。
ルポルタージュしても、すぐれたものです。
その記事によれば、京都市中の死者数は4万2300人。
市中に遺体があふれ、異臭を放っていたことが記されています。
また、死者があまりにも多く、供養が追いつかなかったようです。
仁和寺の僧侶が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝えられています。
この混乱の中、平氏、頼朝、義仲はそれぞれ政治力を分け合っていました。
ところが入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたのです。
その結果として、市民の支持を急速に失ってしまいました。
この時、源頼朝は年貢納入を条件にすることで、朝廷に東国支配権を認めさせたといいます。
権力を握るためには当然、住民の支持が必要になります。
食糧確保はロジスティックの原点です。
その大切なポイントをきちんと見抜けなかった義仲が失脚していったのも、ある意味、当然のことだったのかもしれません。
原文
また養和のころとか、久しくなりて覚えず。
二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。
あるいは春、夏日照り、あるいは秋、大風、洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。
むなしく春かへし、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。
これによりて、国々の民、あるひは地を捨てて境を出で、あるひは家を忘れて山に住む。
さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらさらそのしるしなし。
京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。
念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。
たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、道のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。
前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。
明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまにあとかたなし。
世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。
はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。
かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。
築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。
取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。
いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。
一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。
あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。
濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
現代語訳
また養和の頃であったでしょうか、長い時間が経ったのではっきりと覚えてはいません。
2年の間、世の中では食料が欠乏して、あきれるほどひどいことがありました。
ある年には春と夏に日が強く照り、ある年には秋に大風や洪水などがあり、よくないことが続いて、穀物がすべて実らないのです。
無駄に春に畑を耕し、夏に苗を植える仕事があっても、秋に刈り取り、冬に収穫をするにぎわいはありませんでした。
このために、諸国の人々は、土地を捨てて国境を越え、あるいは家を捨てて山に住むようになりました。
飢饉を鎮めようとして、朝廷ではさまざまな祈りがはじまりました。
並々ではない修法などが行われはしますが、その効果はまったくないのです。
京の街のならわしで、何事につけても、すべての物資を、地方に頼っており、地方から京に入ってくるものがないので、人々は体裁をとりつくろうことができなくなってしまいました。
こらえきれなくなっては、様々な財物を片っ端から売って食べ物と交換しようとしますが、まったく目をくれる人もいません。
たまに交換する人は、金の価値を軽く、粟の価値を重くします。
乞食が道のほとりには多く、いたるところから憂い悲しむ声が耳に入ってきました。
前年は、このようにしてやっとのことで年が暮れました。
次の年には飢饉から立ち直るだろうと思っていると、そればかりか疫病まで加わって、程度がよりいっそうひどくなり、以前の暮らしの跡形もありません。
世の中の人は皆、飢えきってしまったので、日が経つにつれて窮まっていく様は、少しの水の中で苦しむ魚の例えと同じです。
ついには、笠をかぶり、足を包んで、素晴らしい姿をしている人たちが、いちずに家々を乞い歩いています。
このように、つらい目にあってぼけたようになっている者たちが、歩いているかと思ったら、すぐに倒れて伏せてしまったりもしました。
土塀の傍ら、道のほとりには飢え死んでいる者の類は、数えきれないほどです。
死体を取り除く方法もわからないので、臭いが辺り一面に満ちて、変わっていく様には、目もあてられないことが多いです。
まして河原などには、馬や牛車の往来する道すらありません。
身分の低い卑しい者や山に住む者も力尽きて、薪までもが不足していくので、頼りにする方法がない人は、自分の家を壊して、市に出して売っています。
一人が持って出た薪の値段は、一日をしのぐ命にすら及ばないということです。
不思議な事は、売っている薪の中に赤い色がつき、箔などがところどころに見える木が混じっていたりすることです。
それを尋ねてみると、なすすべがなくなった者が、古寺に行って仏像を盗み、お堂の仏具を取り壊し、割り砕いたということでした。
汚れや罪悪の世にも生まれ合わせて、このように情けない有り様を見ることになってしまったのです。
羅生門の記述
最後の丹塗りの木が薪として売られているところろは、芥川龍之介の『羅生門』の記述にでてきます。
とにかく食べるために、仏像を壊して売らなくてはならなくなったのです。
遺体が散乱している都の様子を見た鴨長明は、どう思ったのでしょうか。
おそらく末法の世を感じたでしょう。
釈迦が入滅して正法、像法の後にやってくるという世の中が、末法です。
釈迦入滅を紀元前949年として計算すると、1052年頃を末法元年とする説が流布しました。
この世の終わりにいる実感を持ちつつ、寺から略奪した仏像や法具を叩き割って売っている光景には、寒気を感じたでしょうね。
心がすさみ、救いという言葉も感じられなくなったのです。
平安時代末期は貴族の摂関政治が衰えてしまいます。
院政へと向かう時期でもあります。
さらに武士が台頭し、源氏と平氏が正面からぶつかりあうこととなりました。
治安も乱れ、民衆の不安は増大しつつあったといえます。
そこへもってきて、大飢饉で死者が河原に散乱する光景をみれば、誰もが末法の到来を信じるしかありません。
救いのない時代へとなだれこんでいくのは必然でしょう。
鴨長明はどんな気分で、このルポを書いたのか。
それを思うと、言葉もありません。
無常観にとらわれても、何の不思議もないのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。