指示語をチェック
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は数年前に亡くなった外山滋比古氏の文章を読みましょう。
英文学者としての生活のかたわら、多くの鋭い評論を発表しました。
高校の教科書でもいくつかの文章を扱っています。
最も有名な著書は『思考の整理学』です。
チャンスがあったらぜひ目を通しておいてください。
多くの人に読まれたロングセラーといっていいでしょうね。
彼の文章は小論文の課題としてだけではなく、入試の国語にもよく出題されます。
文章には特徴があり、やや難解だと言われています。
理由はいくつかあります。
よく言われるのは次の3つです。
①接続詞がほとんど使われていない
②指示語が多用されている
③段落同士の関係がつかみにくい
とはいえ、慣れれば、それほど怖れる必要はありません。
今回は教科書に所収されている「解釈」という評論の1部を取り上げます。
彼が何を論じようとしているのかを最初に読み取ってください。
設問は次の通りです。
「作品をあるがままに理解することはできない」という文を読み、あなたが考えたことを800字以内でまとめなさい」
というものです。
この文章には突然、透明人間などという表現がでてくるので、最初は少し戸惑うかもしれません。
しかし筆者が何を論じようとしているのかについて、理解ができれば小論文は書けます。
本文
イギリスにH・G・ウェルズという作家がいる。『透明人間』という作品を書いて、話題になった。
ところが、何年かして、完全に透明な人間は存在しない、という読者の反論が現れた。
仮に人体のすべての部分は透明でありうるとしても、ただ一箇所、不透明でなくてはならない部分がある。
眼球である。
目が物を見るには、眼球が曲折を与える必要があるけれども、透明な目では曲折を与えることはできず、したがって物を見ることは不可能である。
ほかの所は透明にできても、目だけは、そうならない。
文学の研究において、表現をあるがままに読む、ということが言われるたびに、ウェルズのこの透明人間のことが思い合わせられる。
結論を先に述べてしまえば、作品をあるがままに理解することはできないということである。
もし、完全にあるがままを読み取る読み方ができるなら、その人は精神的にも透明人間のようであることになる。
つまり人間としての理解力を持っていないのである。
そうでなくてはあるがままを理解、つまりコピーを作ることはできない。
人間はみな、理解力によって、対象を解釈して初めて分かるのである。
それは対象の完全なコピーではなく、理解による加工、処理ともいうべきもので、元のままではない。
理解力は対象を自己の内部へ取り入れるのに不可避的な改変を施す。
それを否定するならば、対象は、物理的にも心理的にも元のままでありうるであろうが、対象に向かっている人間そのものは存在しないも同然ということになるのである。
人間は物事を受け入れようとすれば、必然的に理解という加工、修正、変形を加えないわけにはいかない。
言い換えると、人間は解釈によってのみ物事を理解すること、我がものとすることができる。
あるがままを取り入れるのは理解ではない。
解釈を経ないものは存在しない。
我々が読むものは、好むと好まざるとにかかわらず、いかなる場合も、我々の解釈を受ける。
その結果、理解されるものは、必ず、元のものとは多少とも違ったものになる。
完全に元と同じものを受け取ることはできない。
人間であるならばこの解釈を否定することは不可能である。
いかに己を殺して対象に参入しようとしても、やはり解釈者の考えがどうしても混入することになる。
解釈の意味
この問題は基本的に、YesNoで答えるようなタイプのものではありません。
もちろん筆者の論点に対して、Noをいうことは可能です。
私たちが理解し、解釈するということの意味を筆者とは全く反対の立場に立てればその路線でまとめられないことはありません。
しかしよく文章を読んでみてください。
外山氏はある文章を読んだ時、完全に作者と同じ理解をすることができないと断じています。
どのような場合でも自分なりの解釈をそこに添えるものだと言っているのです。
これに対して、Noを突き付けるということは、すなわち完全に作者と同じ考え、思考回路をもち、同じ感情を持続し続けることが可能だということになります。
一種のクローン化宣言ですね。
確かに究極まで読み込んでいけば、それができる至福の時が来るのかもしれません。
しかしそれは解釈などというレベルではなく、既に信仰の領域でしょう。
内容の理解による加工や修正、変形などを伴わずに100%同じ状態で受け入れるということにはかなりの抵抗があります。
むしろここでは外山氏の視点を受け入れた方が無難でしょう。
ただし後から追いかけたのでは、新鮮味に欠けます。
後追い記事には高い評価がつきません。
書き足す技術
ここからが技術見せどころです。
表立って反論しにくい文章の時は自分の経験などをさりげなく示しながら、筆者の論点に付け足すのです。
宗教のレベルで、論点を猛追するのかという視点から、自分は自立したいのだと宣言するのです。
極端なことをいえば、経典でさえ、新しい解釈が次々となされるというのが現実です。
他の文章が新しく解釈され、さまざまな視点から説明されることで、私たちは新しい局面を探り出すことができるのです。
あなたの好きな作品を1つあげる方法もあります。
その文章も受け手の見る角度を変えれば、全く新しい作品になるのです。
とくにすぐれたものであればあるほど、解釈のレベルが豊かになります。
例を1つあげてみましょう。
夏目漱石の『夢十夜』はどうでしょうか。
漱石の小説の中でも異色の短編ですね。
教科書にも載っています。
純粋に文学的な要素から分析していく方法が、昔からあったのは当然です。
しかしこれを心理学的な側面から、俯瞰してみてはどうでしょう。
あるいはフロイトの精神分析学的な要素を加えたら、さらに複雑な解釈に進みます。
文芸評論家、江藤淳氏は漱石の嫂に対する愛情の形を、この作品に見ました。
つまり解釈はどのような視点からでも可能なのです。
1つの表現はそれを書いた筆者の元を離れ、むしろ想像もしなかった空白部分をたくさん持っています。
読み手は、それを補充しながら自分の解釈を加えていきます。
これまでの文学研究は、作品のすべてが作者の創造であるという信仰に満ちていました。
しかしそれはもう不可能なのです。
あるがままに読むなどということはありえない話です。
作品を成熟させていくということは、まさにここに示された通りの作業を加えたあとの事実だと考えてください。
新しく内容を付け加えながら、文章を成熟させていくことです。
文章力を磨くことが容易でないことは、大変なことです。
それはよくわかります。
しかし努力する価値は十分にあるのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。