「考える身体・三浦雅士」身体をどう動かすかのリアルは集団の文化の中にある

ノート

歩き方の変化

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は評論家、三浦雅士氏の書いた「考える身体」というユニークな文章を読みます。

タイトルを見た途端、内容がすぐに想像できるでしょうか。

近年、身体はあくまでも個人の所有物であると信じられているようです。

しかしその本来の意味を深掘りしていくと、とんでもない風景が見えてくるのです。

その糸口になるのが日本人の歩き方の変遷です。

現在、多くの人は手と足を互い違いにして歩いていますね。

しかし昔はそうではなかったのです。

農業を中心とした社会では、走ったり跳んだりする必要性がほとんどありませんでした。

むしろ稲の生育状況を注意深く見守るために、腰を地面と平行移動させて歩いていたのです。

いわゆるナンバ歩きがそれです。

ナンバ歩きとは、右手と右足を同時に、左手と左足を同時に出す歩き方のことです。

江戸時代にはこれが一般的な歩き方だったとされています。

現代の歩き方とは明らかに違っています。

この歩き方をしていると、体の軸がぶれにくいため、安定した姿勢を保てます。

ねじれが少なくなり、関節への負担が軽減されます。

疲れにくい歩き方なのです。

着物を着て生活していた時代には、体をねじらないナンバ歩きの方が、着崩れしにくいという利点もありました。

明治期になり、軍隊や学校教育の現場で、西洋型の歩き方が基本になりました。

現代でも、剣道や居合道など、体の軸を意識する武道やスポーツには応用されています。

なぜ手足を互い違いに動かすようになったのでしょうか。

生産の基本が変化したのです。

工業化社会は、均質な身体を必要としました。

つまり、歩き方ひとつをとってみても社会の構造の変化と密接な関係があるということがわかります。

身体所作の変化

身体所作という表現を聞いたことがありますか。

内容を理解するのは難しいかもしれません。

個人が無意識的に行っている身体の動かし方、姿勢、表情などを含む身体の用い方全般を指します。

実はこれがどこまで個人の問題なのかというのがポイントなのです。

私たちは普段どのように自分の身体を動かしているのでしょうか。

そこが一番肝腎なところなのです。

身体の動かし方は時代によって大きく変化しています。

それが単に個々人に依存するものではなく、社会全体に共通する要因によって引き起こされているからです。

この論点を理解すると、ユニークな文章の内容が見えてきます。

身体の動きというものが、どれほど社会的な要因によって変化するのかということが、とてもよくわかるのです。

かつての日本人は畳の上で暮らしていました。

ilyessuti / Pixabay

そこで行われる正座、床に手をついてのお辞儀などが、日常生活の中で自然と身についていったのです。

身体はどこまでも自然の一部として捉えられていました。

外の環境と一体化していたのです。

しかし現代はそうではありません。

身体は「知識としての身体」となりました。

いわば「思考の対象」といってもいいでしょう。

人間の観念は身体から乖離し、私たちは自分の身体に違和感を覚えることが増えました。

これは、「思考が先に立ち」「身体を意識しすぎること」によって、本来の身体感覚が失われた状態だと言えます。

本文の一部を読んでみましょう。

本文

身体の問題というと、人はまず自分の身体を眺める。

手を見、腕を見、さらには我が身を鏡に映しだしてみる。

つまり身体というと、人はまず個人の身体を思い浮かべるのだ。

そしてたいていは、どこかしら恥ずかしくなって、肩をすくめる。

身体は個人に属すのであって、集団に属すわけではないというわけだ。

だが、ほんとうはそうではない。

仕草や表情にしてもそうだが、共同体の基盤は身体にあると言っていいほどなのである。

日常生活の随所にその証拠がころがっている。

たとえば、人はなぜスポーツを観戦するのか。

勝敗の行方を見極めたいと思うからか。

そうではない。

人の身体の動きに同調してみたいのである。

相撲で、ひとりの力士が土俵を割りそうになりながら残すとき、見るものも同じように反り身になって相手の回しを握り締めているのである。

だからこそ、手に汗握るのだ。

つまり、スポーツを見るものは、そのスポーツを一緒に戦っているのである。

野球にしてもそうだ。

投球が決まった一瞬、まるで指揮者に操られたように、会場の全体がどよめく。

投手や打球の呼吸に、全観衆の呼吸が同調しているからである。

それが人間の身体なのだ。

想像力といえば、意識の問題と考えられがちだが、そうではない。

それはまず身体の問題なのだ。

身体がまず他人の身体になりきるのである。

その運動、その緊張、その痛みを分け持ってしまう。

想像力の基盤は身体にあるとさえ言いたいほどである。

日本人の身体観

日本の文化を考えた時、武道、茶道、華道、能、歌舞伎などの伝統的な身体技法がすぐ頭に浮かびます。

そこでの大きな目標は、精神と身体を一体化させることです。

身体の動きと精神性を深く結びつけ、五感や感性を通じて身体を理解するのです。

自分の身体と外部環境が一体でなければならなかったのです。

身体は「考える対象」ではありません。

感覚と経験を通じて統合されるべきものでした。

それが次第に崩れていったという事実をどう読み取ればいいのでしょうか。

思考が身体の感覚より先行する現実をみつめなければいけません。

身体を意識しすぎることが、結果として自身の身体に違和感を覚えることにつながったのです。

本来の身体感覚が失われ、自身の身体像が歪んでしまうことにも繋がる可能性があります。

現代では身体を精神から切り離して捉える「心身分離」の傾向さえ見られるのです。

生活様式の変化が心と身体を大きく切り離してしまったのかもしれません。

椅子や自動車が普及するにつれ、生活様式の変化というだけでは済まなくなっています。

身体そのものに対する認識や感覚も変化してきました。

つまり日本人の身体観は、かつての経験や感覚に基づいた統合的な「生きた身体」のままではなくなっています。

現代の知識や情報に依存し、意識や思考が先行する「考える身体」へと大きく変化したのです。

近代の全体像を問い直していくと、さまざまな問題が登場してきます。

そのひとつが、この身体性の意味の変化なのです。

あなた自身のテーマとして、この内容を理解することができたでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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