「遅いインターネット・宇野常寛」世界との距離感を保つ「書くことの役割」

小論文

遅いインターネット

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は今、話題の人、評論家の宇野常寛氏の文章を読みましょう。

大塚の駅前に彼の独立書店が開業したという話です。

ブログの記事によれば、出店の動機は「本を読む生活」をサポートすることだとか。

通勤や通学の行き帰りにこの「宇野書店」に30分から1時間程度立ち寄り、そこで一切のSNS的なものから離れ、集中して読書をする。

そして予定の時間が来たら、書店の中を一回りして、次に読みたい本に出会ってもらう。

見つけられないときは、専門家に相談することもできる。

そんなイメージの書店らしいです。

ちょっと覗いてみたいですね。

その発想の原点になっているのが、ここで紹介する「遅いインターネット」です。

5年ほど前に発表されました。

しかし少しも古びていません。

むしろ今読んだ方が新鮮なくらいです。

それくらいスピードが重視される世の中になりました。

コスパとタイパを無視して、社会の現象を語ることはできません。

つねに、どちらがより短時間で最大限の利益をあげるか。

それぱかりを気にして生きなければならない時代になったのです。

それが真に幸せなことであるのかどうか。

もう少し真剣に考えてみるべきですね。

彼がなぜ「遅いインターネット」を標榜したのか。

そこを深掘りしてみましょう。

情報との向き合い方

この文章で、筆者はランニングという身体活動を例にしています。

それが情報との理想的な向き合い方と似ているというのです。

ランニングは主体的な速度と距離感で世界と接する行為であり、この感覚こそが書くことや発信することにも通じると主張しています。

21世紀になり人々は、受動的に「他人の物語」を受け取っている場合ではなくなりました。

むしろ能動的に「自分の物語」を再構築する力を育むべきだと説いています。

インターネットの「速さ」に流されていたのでは、うまくいかないという認識が、この考え方の基本にはあります。

それはなぜか。

いつまでも自立できないからです。

最終的には主体的に書くことを通じてしか、世界との適切な距離感を保てないというのです。

スピードに委ねたまま生きていると、自己幻想の肥大化を招く危険性があります。

だからこそ、「遅いインターネット」が必要だと提唱しているのです。

この考え方をあなたはどう思いますか。

SNSなどの短文で、その時の感情を流し、他者を誹謗し、貶める行為が結局は自分自身を見失わせるに違いないと彼は言います。

昨今の状況をみていると、なんとも見苦しい出来事ばかりが目に余りますね。

SNSを介して広がることで、自己の満足感だけが再生産されるという現実には目を覆うばかりです。

特に他者への非難への増幅が見苦しいことは言うまでもありません。

筆者は、こんな時代だからこそ自分の言葉で文章を紡ぎあげよと言っています。

苦しい作業であることに間違いはありません。

しかし何も考えずにAIに任せ、彼らの文脈に乗るだけでは、真の幸福が得られるとは思えないのです。

本文

僕はこの数年、走ることを習慣にしている。

僕の目的は速度を上げることで記録を残すことにも、筋力トレーニングの成果を鏡で確認することにも興味はない、

僕が好きなのは走ることそのものだ。

単に何の目的もなく、ただただ走ることそれ自体を楽しんでいる。

走るというのは、とても主体的な行為だ。

歩くときも、乗り物に乗っているときも、僕たちは一定の速度で世界に接することをいつの間にか強いられている。

けれど、走るとき僕たちは自分の身体の許す範囲で自由な速度で移動することができる。

走るときにもっとも僕たちは世界に対しての距離感と進入角度を、自由に設定できるのだと思う。

人間は何の目的もなく、ただ身体を動かすことそのものを楽しむ時間には、世界との距離感と進入角度をとても自由に試行錯誤することができる。

それと同じことが「書く」ことにも「発信する」ことにも言えると思うのだ。

僕がこの「遅いインターネット」計画で読者と共有したいのは、この走ることのもたらす豊かさのようなものだ。

そして走り続けるための足腰の強さのようなものだ。

これらを言葉と向き合うことで身体ではなく精神のレベルで手に入れることだ。

情報に対する速度を、距離感を、進入角度を、自分が、主体的に自由に決定すること。

この快楽を、僕はたくさんの読者に共有してもらいたいと思っている。(中略)

今、現代人の身体は世界との関り方を変えつつある。

同じことがインターネット上の「情報」にも言えるはずだ。

20世紀において僕たちは報道という「他人の物語」を受け取ることでモニターの中のアーティストやアスリートの活躍する非日常に感情移入し、コメンテーターの視聴者を代弁する発信にうなずいて日常をやり過ごしてきた。

だが21世紀の今日において重要なのは、その「非日常」の「他人の物語」をどう「日常」の「自分の物語」としていくかだ。

「報道」された事実を「他人の物語」を知ったことでどう自分の考えが、世界の見え方が、距離感と進入角度が変化するかだ。(中略)

そして逆に世界のことを忘れないためには自分が立っているこの場所に深く潜る視線(普遍視線)が必要だ。

「書く」という行為は、この2つの視線の往復運動を行い、そして前者の中に程よく後者を組み込むための試行錯誤なのだ。

そしてこの世界に対する距離感と進入角度の試行錯誤を継続することこそが自己幻想の肥大に耐えうる主体の条件だ。

小論文の問題

この文章は小論文の課題としても取り上げられています。

設問は次の通りです。

内容を簡潔に要約し、筆者の考える「遅いインターネット」についてどう考えればいいのかを800字で書いてください。

あなたは彼の文章のどこに着目しますか。

キーワードは何ですか。

geralt / Pixabay

世界に対する「距離感」と「進入角度」という2つの言葉を絶対に外してはいけません。

この両者を得ることで人間は豊かになれるというのが、主張の基本だからです。

それは「書く」ことや「発信する」ことにもつながります。

「書く」という行為は、「自分の物語」を編み直す営みなのです。

さきほどのキーワードを使うなら、世界との距離感や進入角度を測る試みです。

日々の暮らしに埋没しないで、遠くのことや大きなことについても考えるための「世界視線」と、自分が立っている場所に深く潜る「普遍視線」を獲得する必要があります。

言葉と向き合うことでしかできないこと。

それは精神的な「足腰の強さ」を得ることです。

確かに難しい作業であることは言うまでもありません。

しかしただAIの言いなりになって、決められた線上を早く走るだけになってはならないのです。

そのための距離感と進入角度を手にするにはどうしたらいいのか。

あなた自身でもう一度考えてみてください。

そこから自分の言葉で紡ぎ出した内容が、豊かさへの第一歩になるはずです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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