自己認識
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
グローバルな時代を迎え、従来の内向型の社会構造を変えようという試みが、あちこちで行われています。
ネットワークもそのために活用されていることはいうまでもありません。
しかし「異邦人」というキーワードをそこに代入してみると、ことはそれほど単純ではないということがはっきりとわかります。
異邦人とはどのような存在なのか。
それをここでは考えようと思います。
小論文のテーマとしては、まさに境界を意識するという時代のニーズに合っているといえるでしょう。
考えればかんがえるほど、難しいテーマでもあります。
日本は昔から同調圧力の強い社会だと言われてきました。
農業が中心で、ほぼ単一民族で構成されていた島国であるためとも考えられています。
当然のように自分と異なる他者の存在がつねに気になるのです。

極端にいえば、個人を個人として認めたがらない社会ともいえます。
当然のように常識と呼ばれる規範が跋扈し、個人は曖昧な存在となります。
集団の中に埋没していれば、かなり楽に暮らせる社会です。
他人と同じように、無自覚に生きていれば、日常が過ぎていくのです。
そのかわり、あまり有益な対話が生まれることはありません。
革命的な発想が出る社会であるとは言いにくいでしょう。
その証拠にこの30年間、経済的に停滞を続けてしまいました。
GAFAに代表されるような、大規模な世界観を持った企業体があらわれません
自分にとって異邦人とはどのような存在をいうのかということについて、まず発想してみようという試みは大切です。
異邦人のイメージ
最初に一般的な異邦人のイメージを具体化して考えてみましょう。
あなたはどのような人間を思い起こしますか。
すぐにこの人がそうではないかという形でイメージが浮かぶ人は、そう多くないような気がします。
つまり日本型の社会は同質を好むために、つねに内側に異なるものを取り込んでいく方向性をもっているからです。
別の言葉でいえば「空気を読む」に代表される構造です。
多くの会社においては、会社の「和」が一番です。
そこからはみ出してしまう人間を社会は歓迎しません。
カミュの小説『異邦人』に登場するムルソーをご存知ですか。
彼は自分という存在をそのまま前へ押し出したことで、社会からははじかれてしまいました。
名前の由来を考えてみれば、わかりやすいです。

ムルソーとはフランス語で死をあらわす「mort」と太陽を示す「soleil」の合成語なのです。
アルジェリアの海岸を歩いていたアラブ人の男を突然ピストルで撃ち殺し、その理由を太陽がまぶしすぎたからだと裁判所で弁明します。
常識の全く通用しない人間の存在はある意味、怖ろしさを漂わせています。
それだけに社会からはじかれるまでの時間が短かったのです。
虚飾を良しとしない人間は、異邦人への道のりを短兵急に進むという傾向が強いのです。
今回は病気に罹った人間が社会からすぐに遠ざけられがちだという現実を前にして、異邦人の持つ性格を描こうとした文章が課題文になっています。
実際の文はかなり長いので、かなり省略しました。
この文章からでも相当の情報が得られると思います。
ぜひ参考にしながら、設問に答えてみてください。
課題文
なぜこのように私は、「異邦人」や「異邦の地」という言葉の内実にこだわるのか。
それは、長年にわたって、がんや難病の人びとの生き方について取材し考えてきた中で、そういう人々の心模様のなかに、異邦人意識とでも言うべき特別の感情がかなり強く見られるのを、どのように解釈すべきかとずっと考えていたからだ。
たとえば、幼い子どもが二人もいるのに、母親が進行したがんであることがわかった時、「なぜ私ががんにならなければいけないの。何も悪いことをしていないのに。
私が死んだら子供たちを誰が世話するのよ。神様はなぜこんなむごいことを私に科すの」と神を恨む。
そして、「この苦しみは誰にもわからない」と孤独感に打ちひしがれる。
それまで仲良くつきあっていた、子どもたちの通う小学校や保育園の母親たちの元気で明るい顔を見るだけで、心が傷つき、会うのが辛くなってくる。

自分がこの世でいちばん不幸な人間だと思ってしまう。
彼女は異邦の地に移住したわけでもないのに、心理的にまさに異邦人になってしまったのだ。
このように、治癒の困難な病気になった人が絶望的なまでの孤立感や孤独感の虜になる例は少なくない。
「日常のなかの異邦人」と言おうか。
事故や脳卒中などで、身体に重い障害を背負う身になった人々のなかにも、同じような傾向が見られる。(中略)
昨日までは、以心伝心でわかり合える同朋のなかで暮らしていると思いこんでいたのに、進行がんが見つかったとたんに、まるで言葉の通じない異邦の地に投げこまれたような心理状態になるというのは、誰にでも起こり得ることだ。
明日は、自分かもしれない。
人みな異邦人、とりわけ病者みな異邦人というのが、現代なのだ。
「柳田邦男 言葉が立ち上がる時」
設問
この文章には次のような設問があります。
異邦人とはどのような存在か。
この文章を踏まえて、あなたの考えを1000字以内で書きなさいというものです。
1000字というと、原稿用紙2枚半です。
長いように感じるかもしれませんが、書きだしてみると、あっという間に一杯になってしまいます。
課題文を読み、キーワードを次々と押さえていくだけで、どこに結論を導くかを考えなければなりません。
文章を読んで何を考えましたか。
テーマは病気になった途端、誰もが異邦人になる可能性があるということです。
なぜ自分がこの病気になって孤立しなければならないのか。
あまりにも不条理な事実が次々と襲ってきます。
なぜ人は病気になった時、あるいは命の限界を知ったとき、異邦人になるのか。
逆にいえば、それまでいた健常者としての生活は虚偽だったのか。
さまざまに考えなければならないことが、山のように降りかかってきます。
一般的にいえば、異邦人とは自分からみた時、違う国の人です。
それが病気になった時は、同じ民族の人間がみな異邦人になるのです。
これほど苦しいことはないに違いありません。
それまで半ば緊張状態の中でつくりあげてきた「和」が一瞬にして、壊れてしまいます。
同調圧力の磁場を離れた人間が取り得る方法はどのようなものなのか。

そこまで考える必要があるのかもしれません。
人間はいつでも一瞬で「異邦人」になる可能性に満ちています。
安住していた空間が、居心地の悪い場所になります。
解決策はあるのでしょうか。
いまの状況に安住せず、生きる方法を探るべきなのかもしれません。
それには個人の責任も必要です。
自己認識を明確にすると同時に可能性をつねに広げて、他者を包み込むだけの柔らかさを持つことも大切です。
はじかれる可能性
排除の論理だけが先行していると、いつか自分自身がはじかれる可能性も広がります。
個人が個人を尊重しない社会には未来がありません。
重要なことは、対話をつねに絶やさないことです。

自分の意見を持つことの意味を十分に考えなければいけないのです。
そこにある言葉を大切にし、より繊細で明確な認識を育み続けていく以外に、自らを異邦人にしないための良策はないと考えられます。
それでも自らが異邦人になってしまう時、人はどうしたらいいのか。
それ以前にできることは何か。
ここからはそれぞれの個人が考えなくてはならないことです。
自分が他者になる瞬間の構図をきちんと描いてください。
答えは簡単には出ないと考えられます。
それでも書かなくてはならないのが、入試の小論文です。
ぜひあなたも一度チャレンジしてみてください。
難しいのはよくわかっています。
その間に、どのようなことを考えたのかを、ぜひ自問自答してみてはどうでしょうか。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。