「中島敦・山月記」主人公・李徴は完璧主義と自己実現の狭間で揺れた

山月記再読

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は中島敦の『山月記』を取り上げます。

これは高校で習う文学作品の1つです。

教える方から言えば、扱いやすい小説の1つだといえます。

漢文が主体の作品なので、読むのは確かに面倒です。

途中に漢詩まで出てきます。

しかしそこに描かれている世界は、生徒の自我と合致しているのです。

高校に入って2年くらいしてくると、彼らにも自分の力量と才能が少しずつ見えてきます。

無限大に広がっていた夢や希望も、現実との接点を探すべき時期にさしかかるのです。

そこに、この主人公の悩みと合致するところがあります。

誰でもが自分の夢や希望を実現したいのは当然のこと。

annca / Pixabay

しかしそれがいつも成功するわけではありません。

冷静な判断力を身につけていくうちに、その限界も自ずから見えてきます。

その時にどうするのか。

それが主人公の行動と重なるのです。

この作品には、全体を通じて何度も語られる2つのキーワードがあります。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」がそれです。

この2つの考え方の間を揺れ動くのが、この小説の眼目なのです。

それは中島敦の人生そのものでもありました。

彼は作家になることを夢見ながら、なかなか果たせない日々を悶々として過ごしたのです。

他人に評価されないことの苦しさを、身体で味わっていたからこそ、作中人物への傾斜は並々ならぬものがあったと推察されます。

中島敦の「山月記」の簡単なあらすじを以下に記します。

これを機会に、ぜひ読み直してみてください。

あらすじ

唐の時代、隴西(ろうせい)に住む主人公、李徴(りちょう)は大変な秀才でした。

高級官僚になるため、科挙の試験にも合格し、未来は洋々たるものでした。

しかし彼には1つだけ夢があったのです。

それは一流の詩人になることでした。

自尊心が強く、自らの身分に満足しきれなかったのです。

ところが芸術の道で名を成すのは簡単なことではありません。

妻子を捨て、ついに発狂し、そのまま山へ消えて行方知れずとなってしまいます。

一年後、彼の旧友、袁傪(えんさん)は旅の途中で虎となった李徴と出会いました。

李徴は詩業への執着が捨てられず、ついに人の精神や姿を失って虎に変身した己れを恥じながら、かつての友人に草むらの中から話しかけます。

今はまだ人間の心が少し残っているが、しばらくすれば間違いなく虎になる。

そこで完全に発狂する前に自分が作った詩を書きとり、長安の都で学問のある風流な人々に知らせてくれないかと頼むのです。

友人の袁傪はその詩を喜んで書き取りました。

李徴は最後に別れを告げます。

今はまだ人間の気持ちが少し残っているが、帰りに同じ場所に来てはいけない。

虎になった自分が襲いかかることがあるかもしれないからだと付け足したのです。

やがて時が過ぎ、虎になった李徴は咆哮をして姿を消していきます。

李徴は友に心中を告白する中で、自分を分析した結果を示します。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持ち、自分で自分がコントロールできなかったこと。

妻子よりも詩業を優先したこと

李徴の話を聞きながら、友人の袁傪は、残された妻子の面倒を見ることを約束したのです。

唐詩

作中にある詩を書きうつしましょう。

形は七言律詩です。

7文字で8行から成り立っています。

友人の袁傪は確かにいい詩だと認めながら、しかし超一流の詩人になれる資質が李徴にはないと感じるのです。

偶(たまたま)狂疾に因りて殊類と成る

災患相仍(よ)って逃がるべからず

今日の爪牙(そうが)誰(たれ)か敢(あえ)て敵せんや

当時は声跡共に相高し

我は異物と為りて蓬茅(ほうぼう)の下(もと)にあれども

君は已(すで)に軺(よう)に乗りて気勢豪なり

此の夕べ渓山明月に対し

長嘯(ちょうしょう)を成さずして但(た)だ嘷(こう)を成すのみ

現代語訳

思いがけず狂気に犯され、私は獣になってしまった

災難と病とが重なって今は逃れることができない

現在の私の爪や牙に、かなう者がいるだろうか。

あの頃の君と私は共に評判が高かった

だが私は獣となって今、草むらの中におり

君は既に立派な車に乗る身分となって、羽振りが大変に良い

今夜、山渓を照らす明月に向かいながら

私は詩を高らかに歌うこともできず、ただ哀しく吼えることしかできない。

この詩は、作品全体のクライマックスでもあります。

李徴の悲しみが、浮かび上がってきますね。

作品の本質を理解する上で極めて重要な役割を果たしています。

人間性の洞察

『山月記』は、唐代の伝奇小説『人虎伝』を基にした作品です。

この小説が持つ普遍性はなんといっても主人公、李徴の抱える完璧主義と理想の追求でしょう。

現代社会においても似たテーマは存在しています。

社会的引きこもりや、自己否定の存在をどうしても連想してしまいます。

特にSNSの発達により他者との比較が容易になった現代において、この心理的葛藤はより明確になっているような気もするのです。

また自己実現や社会的責任の対立という主題もあります

現代の社会において「やりたいこと」と「しなければならないこと」の衝突を象徴しています。

この二律背反は依然として多くの人々の課題となっているのではないでしょうか。

geralt / Pixabay

さらに自己認識と他者からの評価の乖離という問題があります。

虎となった李徴が、旧友の袁傪に対して自らの才能と苦悩を語る場面は、内なる自己と外なる評価の距離を浮き彫りにしています。

これは、SNSでの自己演出や、学校や職場でのペルソナの使い分けを余儀なくされる現代人の抱える分裂的な自己意識と共鳴するものがあります。

社会から疎外された人間が辿り着く精神的、身体的な危機は誰もが見聞しているところです。

むしろ現代において、切実な問題として存在しているような気さえします。。

『山月記』は単なる変身譚ではありません。

人間の複雑な苦悩と自己実現の困難さを描いた普遍的な物語なのです。

技術が進歩し社会構造が変化した現代において、この作品に託された問題は、よりくっきりとした輪郭を持ちつつあります。

この作品が現代でも広く読み継がれる理由は、まさにこの普遍性にあると言えるのではないでしょうか。

高校の教科書から『山月記』が当分消えることはないような気がします。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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