煩悩の虜
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『発心集』を題材にして、人間の欲望について考えてみたいと思います。
奈良薬師寺の証空律師が引退した後の話です。
律師とは僧正、僧都に次ぐ官のことです。
その彼が高齢であるにもかかわらず、さらに別当職を望むようになりました。
そこで弟子たちは証空が鬼に責められる恐ろしい夢を見たと作り話をして、貪欲をいさめようとしました。
ところが、来世で地獄に落ちるのは現世で自分の所望がかなう前兆だ、と証空は喜び出す始末。
弟子たちはついに翻意させることをあきらめました。
貪欲とは自分の好むものに愛着することを言います。
仏教では、人の心身を煩わし悩ます、根本的な煩悩の1つだと考えられているのです。
人間はいくつになっても、煩悩から離れられない悲しい存在なのかもしれません。
発心集は鴨長明によって1212~1216年頃にまとめられました。
長明といえば、『方丈記』の作者として誰もが知っていますね。
高校でもかなり勉強します。
世の無常を訴えた長明の考えは、日本人の根本に宿っているような気がしてなりません。
発心とは悟りを求め仏道を行おうとする心を起こすことをさします。
この著作はほとんどが仏教説話、発心譚で構成されています。
真の仏教者とはいかにあるべきかという根本の思想を追求しているのです。
ポイントは地獄の鬼が釜をつくって、証空を煮ようとしたことの意味です。
弟子たちの意図と証空の解釈の違いに着目してください。
貪欲は仏教では十悪のひとつに数える罪業です。
弟子たちは必死で戒めようとしました。
しかし欲にかられた証空上人には全く通用しなかったのです。
弟子たちは 現世で欲が深いと、来世で地獄に落ちると信じていました。
ところが証空自身は来世で地獄に落ちるのは、現世で欲をかなえた結果だと考えていたのです。
本文
薬師寺に、証空津師といふ僧ありけり。
齢(よわい)たけてのち、辞して久しくなりにけるを、「かの寺の別当の闕(けつ)に望み申さんと思うは、いかがあるべき。」と言ふ。
弟子たるに、同じさまに、「あるまじきことなり。御年たけ給ひたり。
司(つかさ)を辞して給へるにつけても、必ずおぼすところあらんかしと、人も心にくく思ひ申したるを、
今さらさやうに望み申し給はば、思はぬなることにて、人も心劣りつかまつるべし。」
と、ことわりを尽くしていみじういさめけれど、さらにげにと思へるけしきなし。
いかにもそのこころざし深きことと見えければ、すべて力及ばず。
弟子寄り合ひて、このことを嘆きつつ言ふやう、
「このうへには、いかに聞こゆとも、聞き入らるまじ。いざ、そら夢を見て、身もだえ給ふばかり語り申さん。」とぞ定めける。
日ごろ経てのち、静かなるとき、一人の弟子言ふやう、
「過ぎぬ夜、いと心得ぬ夢なん見え侍りつる。この庭に、色々なる鬼の恐ろしげなる、あまた出て来て、大きなる釜を塗り侍りつるを、あやしくおぼえて問ひつれば、
鬼のいはく、
『この坊主の律師の料なり。』と答ふるとなん見えつる。
何事にかは、深き罪おはしまさん。
すなはち驚き恐れんと思ふほどに、耳もとまで笑み曲げて、
「この所望の叶ふべきにこそ。披露なせられそ。」とて、拝みければ、すべて言ふはかりなくてやみにけり。
現代語訳
薬師寺に、証空津師という僧がおりました。
年をとってから、寺の役職をやめて長くなりましたが、律師が弟子たちに「あの寺の別当が欠員になっているので、私が志願したいと思うが、どうだろうか。」と言いました。
弟子である者たちとしては、異口同音に、
「ありえないことです。律師さまは御年もとっていらっしゃいます。役職をおやめになったのも、きっと俗世を離れて隠遁したい気持ちがおありなのだろうと、
人々も奥ゆかしく思い申しあげていましたのに、今さらそんな要職をお望みになるとしましたら、意外なこととして、人々も律師さまを見下げてしまいますでしょう。」
と、道理を尽くして懸命に思い止まるよういさめました。
しかし律師はまったく納得する様子がありません。
どうしても別当になりたいという希望が強いように見えたので、弟子たちはまったくどうすることもできませんでした。
弟子たちが寄り合って、このことを嘆きながら言うことには、
「この上は、どんなに思い止まるように申し上げても、聞き入れてはくださらないだろう。
仕方がない、嘘の夢を見たことにして、恐ろしさに身もだえなさるほどにお話しいたそう。」と決めました。
数日たってから、あたりが静まっているとき、一人の弟子が律師に向かって言うには、
「先日の夜、たいそう意味のわからない夢を見ました。
この庭に、色々な鬼の恐ろしげなのが、大勢出て来て、大きな釜を塗っておりましたのを、
不思議に思って尋ねましたところ、鬼が言うには
『これはこの坊の主の律師のための釜です。』と答えるような夢を見たのです。
当然、驚き恐れるだろうと思っていたところ、律師は口を耳もとまで笑いで広げて、
「これはきっと私の希望がかなうということに違いない。けっして人には言いなさるなよ。」
と言って、その弟子を拝んだので、まったく言うこともなくなって、そのままになってしまったということです。
人間の欲望とは
この話に出てくる「律師」という地位はどのようなものなのでしょうか。
かなりな高位だということは容易に想像がつきますね。
律師は僧正、僧都に次ぐ官です。
高齢の証空にとっては、身にあまる十分な地位だということができるでしょう。
その僧侶が、人々の尊敬を浴びながら悠々自適な余生を過ごすことは、ある意味理想的な姿だと考えられます。
それなのにも関わらず、さらに次の地位を望むことの意味はどこにあるのでしょうか。
証空がなりたかった「別当」とは大きな寺の長官にあたります。
大きな寺の寺務を全て総括した僧侶のことをさします。
かなりの高齢であることから、弟子たちもすぐに止めたに違いありません。
しかしその甲斐もありませんでした。
本来なら、弟子たちの作り話に反応し、就任を諦めなくてはいけないのです。
しかしそれができないのが人間なのかもしれません。
だからこその「煩悩」なのでしょう。
十の悪とは貪欲(とんよく)瞋恚(しんい)愚痴(ぐち)綺語(きご)両舌(りょうぜつ)悪口(あっこう)妄語(もうご)殺生(せっしょう)偸盗(ちゅうとう)邪淫(じゃいん)のことをを言います。
これらは苦しみを生み出す行いの元と考えられています。
だからこそ、それらを封じなさいとするのです。
当然、証空律師も承知していたばずです。
それなのに、というのがこの話のポイントです。
頭で理解するのと、それを実践するのとは全く違うことです。
年齢を重ねても地位にこだわる貪欲さについては言葉もありません。
誰もが同じだとは思いたくはないですね。
鴨長明にとっても、想像の外であったはずです。
だからこそ、あえて取り上げたとも言えます。
人の哀しさとでもいえばいいのでしょうか。
他山の石とするには、あまりにも重い話です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。