幸福の意味
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は幸せとは何かについて考えてみます。
多くの人たちが自分と離れたところに幸福を見つけようといるという文章を、ヒントにします。
よく考えてみると、これはかなり深刻な問題です。
世界が複雑になればなるほど、どこに自分のアイデンティティを求めればいいのかわからなくなっています。
あまりに情報が多すぎるため、どれを信用したらいいのかも、はっきりとはわかりません。
完全な自己喪失に陥っているのです。
大人たちの発言を次々と鵜呑みにしていくうちに、本来自分が持つべきだった自己を見失うことになりがちです。
子供がインタビューに答えるような番組を見ることがありますね。
とても小学生とは思えないような、大人びた発言をする子も中にはいます。
しかしよく聞いていると、それは彼らの周囲にいる大人が発した内容を繰り返しているに過ぎないことが多いのです。
後で、その事実を知るほど、怖ろしくなることもあります。
そのまま、大人に成長するとどのようになるのかという問題です。
子供時代との断絶を経験しなかった大人は、外からの情報に左右され、仕事に徹して修練を積むとていう発想や集中力に欠ける傾向が強いようです。
しかも現代では仕事が断片化される傾向が強いのです。
仕事を通じて自分の行動を組織化することができないうえに、得られる情報からも、幸せな将来を見通すことができないということがあります。
そのため、幸せは現在の自分とは切り離された別な場所にあると考え、現在からの連続性の中で幸せを築くことができなくなっているのです。
社会学者で「言語派社会学」の確立を目指している、橋爪大三郎氏の文章を読んでみましよう。
小論文の課題としても相応な内容を含んでいます。
真の幸せを求めるために、私たちがするべきこととは何であるのか。
それをこの文章の中から探り、自分の考え方を書きなさいという設問をつくることは、十分に可能です。
課題文
昔は知的労働のホワイトカラーと肉体労働のブルーカラーの2つがあってマルクスも言ったように、ブルーカラーは断片化した単純労働であり、ホワイトカラーは統合された複雑労働のはずだった。
ところが、最近ではブルーカラーの仕事の大部分を機械が代行するようになり、ほとんどの仕事がホワイトカラー的な仕事になっている。
しかも統合されていたはずのホワイトカラーの仕事の断片化が進んで、知的能力に関係なく誰でもできるような仕事が多くなり、ホワイトカラーのプロレタリアが、あらゆる職場で大量にあふれることになった。
ホワイトカラーの職がどんどん地盤沈下を起こして、いまや彼らから仕事全体を見通す感覚は失われてしまっているでしょう。
そうなると、仕事はやらなければならないからやっている、というだけのもので、いったい何のためにやっているのかよくわからない。
これがいまの一般的な労働者の心の風景なのではないでしょうか。
そうすると、仕事場は、できれば逃げ出したい場所でしかなくなる。
その気持ちをまぎらすために、外でいろいろなことをするけれど、次の日にはまた仕事場に舞い戻らなくてはならない。
毎日はその空しい繰り返しになっていく。
そういう人たちの特徴は、指示待ちということです。
自分の仕事を自分で組織できないから、言われるまで何もしない。
遊ぶにしても、集中力がないからひとり遊びができない。
チームワークの能力もないから集団遊びもできないので、大勢でなんとなく群れているという状態になるんですが、群れていても何をするわけでもない。
ただ群れていて、解散しても群れていたいものだから、お互いに連絡を取り合って、同じ群れだということを確認しあうことになる。(中略)
それでも彼らはそれなりに充足しているのかというと、けっしてそんなことはないのです。
こうした状態は、本人たちを苛立たせる。
何が幸せなのか、自分でイメージできないのですから。
幸福の条件
現代は格差の激しい時代です。
よく言われる「親ガチャ」という表現について考えるほど、その実感が強くなります。
特に大学進学などという将来に関わるケースでは、親の文化的環境などの違いがかなり大きな要素を持ちます。
さらに高額の学費が支払えるのかどうかという、経済的な要素も大きな問題です。
どのような親のもとにうまれたのかということが、今ほど大きな要因としてクローズアップされている時代はないのではないでしょうか。
しかし条件が整っていれば、それで幸福が約束されるというものではありません。
幸福感には当然、個人によって違いがあります。
人生観、哲学、信仰などとの関係も非常に深いものがあります。
単純に論じることができない分だけ、小論文を書き切るのは非常に難しいと言えます。
ここでは筆者の論点にのり、現代の労働の内容について自分なりの考えを示すのはどうでしょうか。
社会に出ていない段階で、働き方の違いを示すというのはそれほどに簡単な話ではありません。
それだけに今までの見聞や、自己の経験をどう示すのかという点が大切です。
文中にあるようなブルーカラーとホワイトカラーの差について、あなたはどの程度の認識を持っていますか。
その違いがはっきりしていれば、このテーマでも書けます。
しかしあまり実感がないと、まとめるのは難しいでしよう。
現在の自分から切り離されたところに幸せがあると考える、という事実をもう少し深堀りすることは可能でしょうか。
あまりにも筆者と同じ土俵で論じると、新鮮な小論文にはなりません。
自分の行動のパターンを少し、考えてみることが大切ですね。
論点の精査
ここで質問です。
あなたは本当に筆者と同じ考えを持っていますか。
例えば、課題文にブルーカラーの人は機械が代行するような仕事をしているとありますね。
これは本当でしょうか。
実感をこめてYesと言えますか。
いや、そんなことはない。
実際の労働現場をみると、機械化だけではできない仕事がたくさんあるという事実を知っていたらどうなりますか。
自分の目でみた現実を、正直にここで論じることが大切です。
さらにステータスのある人が幸せのイメージを描きにくいということの具体例はどのようなものでしょうか。
それもあわせて考えてみてください。
幸福はどこまでいっても相対的なものです。
今までの状態が少しでもよくなったと感じれば、客観的にはどれほど不幸に見えても、主観的には幸せを感じることができるのです。
だから話はより複雑で厄介なものになります。
自分の周囲にない現実をみろと言われても、想像すらできないことがあります。
「貧困」という表現1つをとってみても、その違いは各家庭によって全く違ったものになるのです。
それだけにただ群れて、指示待ちになっていないかを検証するだけでも、ここで論文を書くことの意味はあります。
自分の心の内側に入っていって、正直に気持ちを吐露することが大切です。
どのような文章になっても、それが現在のあなたの実力です。
少しずつ、それを内容の豊かなものにしていく作業を試みてください。
「経済」に重点を置きすぎず、「生きがい」「喜び」といった利他の精神にも目を配る必要があります。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。