【あはれの万華鏡・竹西寛子】言葉の持つ複雑で華麗な世界を探求する

学び

言葉の持つ世界

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は作家・竹西寛子氏の評論を扱います。

彼女のことを御存知ですか。

古典文学に造詣がある小説家です。

現代文学の問題として古典を考えようとする独自の視点が一貫しています。

16歳の時に広島で被爆し、その経験がのちの文学活動の根幹となりました。

随想や随筆なども多いです。

この評論は専門化された『源氏物語』論ではありません。

この物語はあくまでも脇役にすぎないのです。

では何が主題なのでしょうか。

作家・竹西寛子がどのようにして言葉の世界を通じ、自分を見いだそうとしたのかという軌跡がポイントです。

冒頭に言葉の運用に即効薬はないと彼女は示しています。

これから読む文章は、小説家である筆者の「言葉論」であることをおさえておいてください。

日本語が情緒的で曖昧という批判にどう答えていったのかを、チェックしていくことが、文の内容の基本です。

彼女は作家・円地文子が口語訳『源氏物語』を出版するにあたって、氏が主宰していた研究討論会に参加しました。

この評論には、その時の経験が色濃く反映されています。

この場でかなり刺激を受けたものと思われます。

その発展型として『源氏物語』を扱った評論も多く書いています。

現代と古典の世界を自由に行き来し、独自の視点を提出して自分の世界を広げていったのでしょう。

美しい日本語

彼女はどのような日本語が、最も美しいと考えるようになったのでしょうか。

その基本は「美しく用いられた日本語」だと述べています。

これだけはすぐに理解できませんね。

言葉は用いられて初めて生きた言語となります。

どこかに美しい言葉があって、それを手元に持ってくれば、すぐにきれいな日本語になるというものではありません。

それはあくまでも観念論の域での話です。

ポイントは私たちが日々日本語を、どのように使っていくのかということです。

そこで自分の感情をあらわす表現を探し求め続けることこそが、より美しい言葉を自分のものにする第一歩となるのです。

もちろん、日本語は情緒的な要素をもった、曖昧な言語であるという側面を持ってはいます。

しかしそれをどう使うかによって、曖昧さを超えた説得力と喚起力を持った力強い表現活動が可能となると考えたのです。

彼女は「作品を書きたく」なったのに、言葉の定まらないことがよくあったようです。

日本語をとにかく自分に忠実に使いたいと願った果ての苦しみです。

そこで出会ったのが「古人の言葉」でした。

それが生き生きと伝わってくることで、複雑な感情を持つに到りました。

あえていえば「うれしさ」とでも呼べるものでしょうか。

しかしその背後には「道のりの遠さ」も含まれていたのです。

自分にできるのか、そのような日本語の体系の中に自分が入っていけるのか。

その心配の方がむしろ増える一方で、困惑の度合いがより深くなりました。

ここでは以下の文章を読んで、800字で考えたことを書きなさいという形にしてみます。

小論文の問題として、十分に通用するレベルです。

日本語の持つ特性についてまとめても構いません。

あるいは1人の作家が生まれるまでの苦しみについて、感じたことを書いてもいいです。

しかしその場合は、どこまでも言葉の持つ世界についての認識を示さなければなりません。

『源氏物語』についての知識を振り回して、お茶を濁すなどという書き方は絶対に避けなければなりません。

きちんと内容を読み取ることを、心に念じてください。

課題文

人に歴史があるように、日本語にも歴史がある。

現行の日本語を少しでもいい加減にではなく用いようとすれば、知識乏しき者としては遅ればせながらでも、ここに到る経緯を辿らざるを得なくなる。

思いがけず一つの作品を書きたくなって自分の文章を試みようとしたものの、言葉がいっこうに定まらず書きあぐねていた私に、もはや学生時代のように受身では読み流せなくなった日本の古典が、まるで異なるもののような鮮度で迫ってきた。(中略)

情緒的で曖昧だというのは、聞き慣れた日本語批判である。

確かにその一面はある。

しかし例えば『源氏物語』における「物の心」「事の心」はどうであろう。

何の説明もいらず、それぞれの前後の文章とともによく読んでみると,物や事の本質以外をさすものではないことが納得される。(中略)

本居宣長はこの物語の眼目を「もののあはれ」と定めた。

「もののあはれ」を知ることは「物の心」「事の心」を知ることだとも記した。

紫式部が言ったのではない。

後代の読者は、「あはれ」の万華鏡のようなこの物語によって、一語の多様化、複雑化にすぐれる日本語と対峙することになる。

「ああ」という、条件反射的な感情で始まる「あはれ」から、具体的な事物の一般化と再認識という、高度な直感で立つ「もののあはれ」へ。

私はあえて『源氏物語』の用例に即したが、ここには、事物の精妙な感じ分けと,一般化によって事物の本質に関わる知的な作業との、いずれをも長所とする日本語運用の典型の一つが示されていると思う。

日本語と他国語の比較など私にできることではない。

そういう視点からではなく、情緒的でありながらそこに欠けているものも、運用次第で克服できる日本語が、日本人の体質と感受性に適っているらしいという理由から私は日本語を大切にしたいのである。

すぐれた作品の余韻と気品、加えて喚起は日本語の何よりの魅力であり、運用の新たな可能性へのささやかな賭けは、私の生きがいでもある。

情緒的で曖昧という日本語批判があるが、運用次第で説得と喚起の力を増す。

「あはれ」の万華鏡のような『源氏物語』などすぐれた作品の余韻と気品、喚起は日本語の魅力で、運用の新たな可能性への賭けは私の生きがいだ。

能動的に読む

筆者は最初から日本語が美しいものだと考えてはならないと言っています。

結論はそこにはないのです。

古典を能動的に読み進め、1つの言葉がどのような位置にあるのかを確かめました。

その結果として、自分がたどるべき日本語の道を探し続けたとあります。

この内容をあなた自身の問題と重ねて書くことはできますか。

そこが、この小論文のカギになります。

自分の体験の中で、いかに言葉を粗雑に扱ってきたか。

日本語の持っている長所に甘えて、杜撰な使い方をしてこなかったか。

読み方にしても同じです。

自分自身の読みとり方が甘く、その結果、言葉が生き生きとしていないことがありませんでしたか。

筆者の論調にそのまま乗るのではなく、自分の場合にはこういうことがあったという斜めからの付け足しが非常に効果を持ちます。

具体的な例証を伴いながら、文章をまとめていけば、かなりの評価が得られるのではないでしょうか。

これを機会に彼女の文章を読んでみてください。

少し硬質な、それでいて美しい余韻をもった言葉を、そこに見出せるはずです。

チャンスがあったら、『源氏物語』に触れてみることをお勧めします。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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