【考える身体・三浦雅士】精神と肉体の二元論から想像力が跳び立つ日

考える身体

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は思想家、三浦雅士氏の文章を取り上げます。

彼は雑誌編集者を経て、文芸評論の道へ進みました。

このエッセイは高校の教科書によく所収されています。

1度くらいは目にしたことがあるかもしれません。

特に、ナンバ歩きについての記述では、よく取り上げられます。

意外な書き出しから始まるので、記憶に残っているという話をきいたこともあります。

ナンバ歩きというのを御存知ですか。

手足を同じ方向に出して歩く歩き方です。

ここが一番生徒にもアピールしましたね。

さて、文章全体を通して、何が論じたいのか。

核心をキーワードから取り出していかなければなりません。

AbsolutVision / Pixabay

ぼんやり読んでいても、どこがポイントなのかよくわからないままで終わってしまったということがないようにしましょう。

課題文の読みとりはいつも、読解力の問題とセットです。

特に教科別の試験をせずに、小論文だけで国語の実力を探るという大学の場合、その意味は重いです。

ここでほとんどの実力をはかります。

それだけに内容をよく吟味して、読み取る方法を身につけてください。

てっとり早いのは、評論文の問題集を解くことです。

最初は歯が立たないというのが、正直な感想でしょう。

語彙がわからない。

選択肢の選び方がわからない。

そもそも内容が読みとれない。

まさに三重苦です。

しかしめげることはありません。

繰り返しているうちに、次第に「抽象」と「具体」の系列が見えるようになります。

解答は必ず一般論の「抽象部分」の中にあります。

めけずに続けてください。

課題文(前半)

昔の日本人は今の日本人とは違った歩き方をしていたというと、たいていの人は驚く。

昔の日本人は、手足を互い違いに出す今のような歩き方はしていなかった。

右手右足を同時に出す、いわゆるナンバのかたちで歩いていたのである。

腰から上を大地に平行移動させるようにして、摺り足で歩いていた。

いまでも、能や歌舞伎、あるいは剣道などにはこの歩き方が残っている。

なぜこのような歩き方をしていたかといえば、生産の基本が農業、それも水田稲作にあったからである。

稲の生育を注意深く見守るためには、走ったり跳んだりすることは無用だった。

事実、いまでも、浮き足立つとか跳ね上がるとかいう言葉は、日本語では悪い意味である。

ところが、西洋のたとえばバレエでは、浮き足立ったり、跳ね上がったりしないことには踊りにならない。

バレエは、遊牧を生産の基本とする文明によって育まれたのである。

摺り足ナンバでは、馬に乗って羊を追う仕事など、むろんできはしない。(中略)

昔の日本人はと言ったのは、むろん、今の日本人は西洋人と同じ歩き方、同じ走り方するようになってしまつたからである。

こういうことを話すと、じつは日本人以上に西洋人が驚く。

それもかなり激しい驚き方をする。

考えてみれば当然で、日本人の身体は、ここ1世紀のあいだに極端に変わった。

わずか数世代のあいだに、水田稲作型の身体から工業型の身体へと急激に変わったのである。(中略)

今の日本人は昔の日本人以上に身振りが大きくなってきている。

表情が明確になり、派手になってきている。

おそらく、年配の方の多くがそう感じているだろう。

昔はむやみに感情を表すのは下品とされたが、今ではまるで逆であるというように。

とすれば、人は意識において考えるよりも先に、まず身体において考えていると言うべきだろう。

ある身体所作の体系を採用したその段階において、人の身体は、意識よりも先にすでに考えはじめているのだ。(中略)

課題文(後半)

日常生活の随所にその証拠がころがっている。

たとえば、人はなぜスポーツを観戦するのか。

勝敗の行方を見極めたいと思うからか。

そうではない。

人の身体の動きに同調してみたいのである。

相撲で、ひとりの力士が土俵を割りそうになりながら残すとき、見るものも同じように反り身になって相手の回しを握り締めているのである。

だからこそ、手に汗握るのだ。

つまり、スポーツを見るものは、そのスポーツを一緒に戦っているのである。

野球にしてもそうだ。

投球が決まった一瞬、まるで指揮者に操られたように、会場の全体がどよめく。

投手や打者の呼吸に、全観衆の呼吸が同調しているからである。

それが人間の身体なのだ。(中略)

このように考えるとなぜ舞踊と遊戯が神事として誕生したかが分かってくる。

舞踊と遊戯、すなわちダンスとスポーツは、おそらくその起源をひとつにしている。

いずれも身体を介して、人間が集団を成していること、共同体を形づくっていることを確認する行為にほかならなかったのである。

神前で舞うとき、共同体の成員もまた共に舞うのだ。

相撲にしてもそうだ。

観客もまた力を尽くして戦うのである。

たとえば綱引きのような遊戯は、身体のこのような共同性をそのまま象徴していると言っていい。

しかも舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人との協働性のみならず、人と自然の共同性をも教えたはずである。

身体の想像力は、人と動物、人と自然の境界をも、やすやすと越えたはずだからだ。

意識と身体

このエッセイの論点は2つに分かれます。

ここをまずきちんとおさえてください。

それは何か。

「意識」と「身体」です。

人間は「精神」と「肉体」という2つのものをつねに意識して生きてきました。

しかしともすると、「精神」の方に重点を置き、哲学主体になりすぎた傾向があります。

ある意味、「身体」の復権こそがこれからの時代にふさわしい。

人は意識において考えるより先に、まず身体において考えていのかもしれません。

その証拠にスポーツが今や、商業経済の最前線に躍り出ています。

ワールドカップの熱狂がテレビの放映権料を莫大なものに押し上げる時代です。

スポーツと一緒に戦いたい人々の欲求には際限がありません。

想像力は、まず身体の問題として捉えようという筆者の論点の基礎もそこにあります。

舞踊や遊戯は、身体を介して、人と人の共同性のみならず、人と自然の共同性をも教えたのです。

分断の時代であった近代が問い直される中、哲学も身体との統合を待っています。

長い間、精神世界だけに力点が置かれていた地平から、どう脱却するのか。

そのための方法論は何か。

身体もまた別な精神の発揚を求めていることを強くアピールすることが大切でしょう。

あなたなら、どの視点から書きますか。

体験談も効果があります。

しかし全体のバランスをよく考えることが大切です。

無駄に長くなってはいけません。

構成力が何よりも必要なタイプの小論文になるでしょう。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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