日本語の危機
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は日本語の問題を正面から取り上げます。
世界中を見渡したとき、非西洋語圏できちんと機能する国語を持っている国はほとんどありません。
日常生活で使う言葉の他に、いわゆる翻訳語と呼ばれるものが備わっているのは数えるほどです。
日本語は複雑な哲学用語までを含めて、すべて自前の国語だけで賄うことができます。
これは想像以上にものすごいことなのです。
多くの民族が複雑に絡み合っている国家では、統一した国語を成立させることができませんでした。
その結果、東南アジアの多くの国では英語に頼らざるを得なくなっています。
フィリピンなどがいい例でしょうね。
タガログ語という古来からの言葉があります。
これはもちろん公用語です。
しかしその他にもいくつかの言語があるのです。
共通の国語をどうしてもつくれなかったため、現在は英語が公用語になっています。
他のアジアの国も状況は似ています。
細かな民族がそれぞれの言葉を使うため、国を統一する以前に民俗紛争まで起こっているのです。
そこへいくと、日本語は大変に優秀な言語です。
明治維新の頃に、英語の辞書から、1つ1つ言葉を作り出していきました。
『大言海』という辞書がつくられた時の話などを読むと、実に頭が下がります。
ところがここへきて、かなりの会社が社内公用語を英語にし始めました。
楽天などがその先陣を切ったと言われています。
現在、全ての会議や意思疎通は英語で行われているそうです。
すごい時代になりました。
そこへ出てきたのが「英語公用語論」です。
一時の熱意はないようですが、しかし底流にはしっかりと存在しています。
なぜそのような視点が導かれたのか。
その背景を探ります。
この小論文は2010年、慶応義塾大学文学部で出題されました。
全文は大変長いので、要所だけを掲載します。
インタビューの相手は作家の水村美苗氏です。
課題文
「ケータイ小説」が顕著な例ですが、最近出版される本は、完全に「現地語」で書かれたものが増えているように思います。
そしてそれが売り上げ増につながっている例もある。
これは「現地語」による「国語」の押し流しが起きているということでしょうか。
水村
英語が支配的な言語になったことと、日本で流通している日本語が貧しくなったこと。
実は私はこの間には直接的な関係はなかったと考えているんです。
もちろん、今後は、英語が支配的な言語となった影響は急速に出てくるでしょう。
でもそれ以前に日本語が勝手に貧しくなっていった。
原因はいくつか考えられますが、一番大きいのは、戦後教育において、文章に対する正しい認識が失われてしまったことにあると思います。
文章は読むべきものであり、自己表現のための道具ではないという認識が失われてしまった。
その結果密度の高い文章を読まなくなってしまいました。
私は学校で「近代文学」を読むのを勧めています。
「それは単なる好みの問題だろう。現代文学で何が悪い」という意見が出てくるのも、この日本でしたら、あり得ると思います。
でも、私はこれは好みの問題には還元できないと思っているんです。
理由はいくつも挙げられますが、二つに絞って言えば、一つには、繰り返しになりますが、古典というのは時の流れに堪えてきたもので、どの国でも国民文学の古典を教えるのは当たり前だからです。
こんな当たり前のことを、国語教育の基本に据えていないのは愚の骨頂です。
言論統制があって過去のものを読ませてはマズイという国は別ですが。
そしてもう一つには、読む能力の不可逆性とでも言うべきものがあります。
子供の頃から近代文学に親しんでいれば、現在書かれている文学を読むのに何の問題もありません。
物理的にページを繰る速度で読めるぐらいです。
ところが、現代文学しか読んでいないと、近代文学が読めないんです。
つまり、ある年までに、ある程度歯ごたえのある文章を読む癖がついていない人は、その後ずっと読めなくなってしまう。
どちらも読めて、はじめて「好みの問題」だと言えると思います。
私は何も「紫式部を読め」と言っているわけではありません。
日本語は、非西洋語であるにもかかわらず、国民文学の古典としての近代文学をはやばやと持つことができた幸運な言葉である。
その近代文学を読み継ぐことで、読む訓練をする。
日本語が「亡び」ないで済む道をたどるのに、正統的でも効果的でもある方法だと考えています。
設問
水村氏の現状認識を踏まえた上で「英語を日本の公用語とする」という意見について、自分の意見を340字以上440字以内で述べよ。
これが設問の全てです。
実はこの問いの前に水村氏がインタビューの中で使った「普遍語」「国語」「現地語」の違いについて220~280字で説明しなさいという設問があります。
これでおそらく内容を整理しなさいという意図なのでしょう。
英語の公用語化の論理の背景には何があるのでしょうか。
グローバルな経済環境の問題です。
これ以外には考えられません。
世界中がインターネットで繋がっている現代、コミュニケーションの道具として、共通言語が必要になります。
その際、最も多くの人が使っている英語に注目するのは当然のことでしょう。
それゆえに、日本の公用語に英語を使うことはどうなのか。
あなたの意見を書かなくてはいけません。
一般論ではNGです。
何を糸口にしますか。
乏しい読書経験
ヒントは対談の中にあります。
読解力が著しく落ち込んでいるというのがそれです。
読書経験があまりにも乏しくなっているのです。
口当たりのいい柔らかい文章ばかりを読み、質の高い書き言葉に挑むことがありません。
その結果、書き言葉が急速に衰えてしまいました。
もし公用語を英語にしたとして、使えるのはメールかSNSで利用できる程度の質のものになる危険性を孕んでいます。
ここで大切なのはやはり筆者の論点です。
歯ごたえのある文章を読み、語彙力をつけ、それを日本語の土壌のなかに撒く。
その繰り返しがない限り、たとえ英語を使ったとしても、レベルの高いものにはならなでしょう。
実用的なビジネスの場では使えても、精神の深みに届く言葉の質を担保できるのかどうか。
その問題を考えてみてください。
もちろん、それでもコミュニケーションができるのなら、十分だという論点も当然あるに違いありません。
どちらの立場であれ、現在のあなたが考える、よりよい解答を待ちたいと思います。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。