【小論文・個性】同世代には共通の要素が多々あるという事実に着目せよ

学び

個性ということ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はあらためて個性の問題を考えてみます。

自分ではこれが個性だと思っていたものが、実は同じ世代に共通した感覚であったという事実もたくさん報告されています。

アイデンティティとか自分らしさというテーマは実に多くの大学で出題されます。

入試小論文には格好のテーマなのでしょう。

一見すると、書きやすいような気がします。

しかしその内側を検証してみると、かなり複雑です。

この問いは2010年に静岡県立大学の看護学科で出されました。

採点にはかなり手間がかかったのではないでしょうか。

単純に「個性」について考えるところを書けと突き放してしまうと、種々雑多な答案になります。

そこで課題文を提示し、ある程度のワクをつくります。

それもあまりに難しい内容だと、受験生はどう書いていいかわかりません。

多くの人の目に触れる、読みやすいエッセイが最適なのです。

どのような視点からでもある程度自由に書け、一定の制限も同時に可能になります。

出典は内田樹氏のエッセイ『疲れすぎて眠れぬ夜のために』です。

彼の文章は実によく出題されますね。

現代文の入試にも使われることが多いです。

いくつか目を通しておくことを勧めます

今回のエッセイは個性という概念をユニークな視点から掴まえた内容です。

設問は筆者の個性の捉え方を参考にしながら、個性に対するあなたの考えを600字以内で述べなさいというものでした。

ここでポイントになるのが「筆者の個性の捉え方」を参考にしなさいという点です。

ここを見落とすと、大きく減点されます。

最初に課題文を示します。

キーワードを見落とさないでください。

課題文

自分と自分の同類たちを協同的に成約している「縛りに気づくのに一番効果的なアプローチは異文化との接触です。

たとえば英語の人と喋っていると、英語では言えないことが自分の中にある、ということに気づきます。

英語で「それじゃ、日本の文化について語ろう」ということになったとき、こちらの口から出るのは、結局ストックフレーズなわけです。

英語の本でこれまで読んできて丸ごと覚えたストックフレーズばかりがつい口をついて出てきます。

そういう局面で、ぼくの口から出てくることばは、たいてい欧米の人たちが日本を批判する時の決まり文句です。

仕方がないですよね。

英語でうまく喋るということは、英語的なワーディングで、言語的なアクセントで「いかにも英語圏の人間が言いそうなこと」を再現してみせるということなんですから。(中略)

以前サンフランシスコに行ったときに、帰りの空港のカウンターで、空港職員の態度が非常に悪かったことがありました。

長い間人を待たせておいて、だらだら仕事をしているし、割り込む人がいても、それを咎めもしない。

ぼくは20分くらい待たされた果てに、腹が立ってきて、ついカウンターをばんと叩いて、「ぼくは20分ここで待っているが、君はさらに何分ぼくを待たせるのか」と怒鳴ったのです。

この瞬間、ぼくは自分の英語があまりに滑らかだったのでびっくりしました。

あ、そうか、英語というのは「私が正しい、君は間違っている、私には権利がある、君には義務がある」というようなことを言おうとすると、すごくスムーズに出る言葉なんだ、ということが腑に落ちました。(中略)

英語で喋るということは、英語話者たちの思考のマナーや生き方を承認し、それを受け容れるということなのです。

逆から言うと、日本語で思考したり表現したりするということは、日本語話者に固有の思考のパターン、日本人の「種族の思想」を受け容れるということです。

そういうふうにして、自分が「個性」だと思っていたものの多くが、ある共同体の中で体質的に形成されてしまった一つの「フレームワーク」にすぎない、と気がつくわけです。

じゃあ、自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められているのか、そこからどうやって脱出できるのか、というふうに問いを立てるところから、はじめて反省的な思考の運動は始まります。

「私はどんな風に感じ、判断することを制度的に強いられているのか」、これを問うのが要するに「思考する」ということです。

若者たちはオリジナルであることが大好きです。

でも、彼らが自分のかけがえのない個性だと思っているものの95%くらいは、実は「既製品」なのです。

筆者の視点

設問に答える時に重視することは、その問いかけに必ず応えることです。

この文章を参考にと言われたら、必ずその内容に関連付けた解答を書かなければいけません。

ここでいえば、自分の「個性」だと今まで考えていたものが、実はほとんど既製品であったという事実です。

異文化と接触したことで特異な個性だと思っていたものが、ごくありふれた同世代に共通の感覚であることを知ります。

特に言葉というものは思考や感情の表現にすぎないと普通は思っています。

しかし本当はその場での表現だけで終わるものではないのです。

むしろ、そこにいたる内面の世界を規定しているのです。

考え方や表現の仕方など、通常は個性などといわれているものも、その内側に入り込んでいます。

日本人の態度の基本は日本人のスタイルそのものといってもいいのです。

ここに出てくるキーワードに「フレームワーク」という言葉があります。

どういう意味で使われているかわかりますか。

概念の枠組みのことです。

つまり考え方のプログラム、雛型のことなのです。

YesかNoか

どの立場からあなたはこの小論文を書きますか。

個性というものを信じて進むのか。

そんなものは元々なくて、むしろ相対的なものでしかないという立場でまとめるのか。

どちらか1つでしょうね。

自分にしっくりくるのはどちらですか。

筆者はあまりにもレベル高い個性を意識しすぎているという感覚も当然あるでしょう。

日常的に個性という時は、そこまでの強さを要求していないということも考えられます。

日本人の均質性は昔から論じられてきました。

それだけに、少しでも他者と違うところに風通しのよさを求めたいというレベルで書くこともできます。

それともやはり個性という表現を使うからには、想像力を十分に膨らませるだけの資質を常に自らの中に育て上げる気概が必要だという論点も可能です。

どちらの立場でまとめても、問題はありません。

大切なポイントは、論旨が一貫しているということだけです。

筆者の論に対してYesも可能です。

その場合はもっと深く説明すること。

Noの場合は個性の基準を少し下げることで、日常生活の中の重さを緩和していく方向に舵を切ることです。

結論を決めたら、それを十分に補完する論理を組み立てていかなければなりません。

そこかこの問題の難しさです。

単純に個性的であることがいいとか、悪いとかというレベルでの論文にしないこと。

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説得力がなければ、どちらの立場で書いても合格答案にはなりません。

とにかく書いてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

学び
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