数学者の言葉
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は前回に引き続き、都立西高校の推薦入試問題を考えます。
毎回、本当に短い文章が出題されるだけです。
これを50分で600字書けと言われると、唖然としますね。
平成30年度は数学者、岡潔の言葉でした。
「問題を出さないで答えだけを出すのは不可能ですね。」というのです。
さてどうまとめたらいいのか。
メチャクチャに悩むと思います。
他の受験生と同じ内容なら、当然目立ちません。
採点者の先生の目をひく文章と内容でなければなりません。
西高校は小論文の配点基準が高いのです。
普通は内申点が50%、面接25%、小論文25%です。
ところが西高校は調査書点360点+当日点540点(面接240点、作文300点)となっています。
調査書点は素内申(45点満点)を360点にするため、素内申1点分=8点という計算です。
これをみればよくわかるように、当日点がとても高いのが特徴です。
とくに作文と呼ばれている小論文の配点が高いですね。
全体の900点のうちの300点。
実に33%なのです。
それだけでも書く力を重視しているのがよくわかるでしょう。
岡潔の文章が出題されたのは平成30年でした。
その翌年、同じ数学者の藤原正彦の文章も出されています。
「数について何かを発見するためには、数を転がして、ころころと手のひらで弄ぶことが一番重要なんです。藤原正彦」
数学者の言葉が2年間続いたのは偶然ではありません。
明らかに探したに違いありません。
岡潔
彼は日本を代表する数学者としてよく知られています。
湯川秀樹や朝永振一郎も岡の講義を受けています。
後にフィールズ賞を受賞した広中平祐が、未解決問題について講演したことがあります。
代数多様体の特異点解消問題という難問です。
一般的に考えるのでは問題があまりに難しいということを知っていた広中は、制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案をしたのです。
しかしその時、岡潔は問題を解くためには、制限条件を付けるのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定するべきだと主張しました。
その後、広中教授は制限を外して一般化し、後に数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受賞したのです。
平成30年に出された岡潔の言葉は、まさにその時の彼の心の中を表現しているかのようです。
もちろん、そんなことを知っているからといって、すばらしい文章が書けるワケではありません。
ポイントは何か。
当然キーワードは「問題」と「答え」です。
あなたはこのテーマ型小論文をどうまとめれば、採点者の心をとらえられると思いますか。
広中平祐に対して岡潔がどう発言したのか。
そこにキーポイントが含まれているのです。
岡潔は問題を解くためには、制限条件を付けるのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定するべきだと主張したのです。
理想化した難しい問題とはなんのことでしょうか。
数学はつねにnまでの数字を扱います。
1とか2とかいった具体的な数字ではありません。
必ず一般化ということをしますね。
しかし高度な数学はそれでは終わりません。
必然的にnはその次に無限を要求してくるのです。
無限への広がり
理想化した難しい問題とはつまりそういうことです。
つねに複雑な問題を提出する覚悟がなければ、それに答えることはできません。
どのような場合にも当てはまるということがなければ、数学は成立しないのです。
藤原正彦の言葉もその意味では全く同じことを言っています。
数について何かを発見するためには、数を転がして、ころころと手のひらで弄ぶことが一番重要なんです。
含蓄が深いですね。
数を転がして手のひらでもてあそぶというのはどういうことがわかりますか。
その問いを愛するということです。
そこに問いがなければ、答えをだそうという気構えが出てきません。
どこからやってきた問いであれ、それが極めて真理に近いものであればあるほど、解を得たいとする熱意に燃えるのではないでしょうか。
岡潔は仏教にも非常に造詣が深かったときいています。
彼は論理も計算もない数学をやってみたいとつねづね語っていました。
論理や計算は確かに数学の1分野ではあります。
しかしそれは彼に言わせればあくまでも、数学の表面に過ぎません。
数学の本体とは、むしろ仏教でいうところの曼荼羅世界に等しいとさえ考えていたようです。
宇宙の空間をどのようなものとして認識するのかということなども、考えていたそうです。
どう書くか
実際の試験ではとにかく600字埋めなくてはいけません。
数学者、岡潔を知らなくても、なにかを書かなくてはならないのです。
全くなんの知識もない時にどこから始めるのか。
最初に問いと答えについて考えてみてください。
自分にとって喫緊の問いとは何か。
それに対して自分はどのように応えを得ようとしたのか。
あるいはどうしてその問いが自分の前にあらわれたのか。
そこには必ず何らかの理由があるはずです。
「生老病死」という4つの生き方を想像してみましょう。
肉親の死などに触れた時、自分の生の持つ意味、老いることの本質とはなにかということを考える時があるかもしれません。
漱石は円覚寺に参禅した時、「父母未生以前の生」とはなにかという公案を与えられたという話が、小説『門』の中に出てきます。
ある問いにぶつかった時、自分はどのように答えを得ようともがいたのか。
その様子をまとめることに無駄はありません。
十分、ここでの実質をわきまえた文章になりうる可能性を持っています。
あるいは自分の弱点は何か。
自分がこの世界に対してなしうることはなにか。
人生の目標をどこに設定すればいいのか。
幸福の意味は。
あらゆる問いが溢れ出てくるのではないでしょうか。
その問いにリアリティがどれほどあるのか。
ただ問いのための問いではダメです。
採点者の心をゆさぶってください。
そうした答案には高い評価が下されると考えます。
一般論をただ述べても意味がありません。
あなたにとって喫緊であること。
切れば血がでるほどの切実さを、この問題は要求しているのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。