【それから・夏目漱石】人はなぜ後悔しながら生きるのか【自由の選択】

それから

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は後悔ということについて考えてみます。

人間はあの時こうすれば良かったとか、ああすべきだったとか、色々な思いを抱きます。

より自由に自分らしく生きようとすればするほど、悩み苦しむのです。

後悔するということと、自由であるということの意味はどこにあるのでしょうか。

なかなか複雑で面白い内容だと思います。

「自由の認識根拠としての後悔」というのが今回の評論のタイトルです。

筆者は中島義道という哲学者です。

内容が複雑なので、このままでは理解するのが難しいかもしれません。

そこで1つの例として、夏目漱石の小説『それから』を同時に考えてみることにしました。

この作品はさまざまな解釈が可能です。

明治の高等遊民の生活を描いたものです。

全編が後悔に彩られています。

今回はその側面から内容を読み取っていきます。

最初に評論の核になる部分をまとめます。

冒頭のところを少し読んでみましょう。

——————————

「そうしないこともできたはずだ」という私の思いは、そのとき私が「自由であった」という思いとリンクしています。

とはいえ、ここで頭の切り替えが必要なのですが、私は自由であるがゆえに、後悔するのではない、あの時私がAを自由に選んだからAを選ばないこともできたはずだ、と推量するのではない。

まったく逆なのです。

私はあの時「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのです。

選ばなかったという信念

この逆説的な文章の意味がわかりますか。

つまりそうしないこともできたはずだという信念と共に、本当の自由が生まれるということなのです。

なんだかちょっと戸惑ってしまいますね。

後悔をするというのは過去をどう解釈するかということなのです。

自分なりの解釈を未来にどう活かすかということは、常にこの後悔という言葉と自由という言葉がセットになって出てくるのです。

あの時こうしたらよかったと思うことが、よく人生にはあるものです。

しかし過ぎ去った過去ですから、今はもうどうしようもないワケです。

けれどもあの時にそうしないこともできたはずだという後悔の感情を持つことは、人間ならば誰でもあることです。

あの時自分の評判を落としたくないために約束を守ったともし考えたとしたら、その行為はどういう意味を持つのか。

自分が不道徳な人間であることを当然、認識していることになります。

あの時、そうしないこともできたはずなのに、私は約束を守ったとしましょう。

道徳的にはどういう意味を持つのか、わかりますか。

なぜその時、人の目ばかり気にしていたのか。

自然に振舞うことがどうしてできなかったのか。

そのことを後悔することがもしあったとすると、そこから本当に自分が自由であることとは何かを考えるきっかけになるというのです。

非常に逆説的な考え方です。

しかし確かに虚を突いていますね。

いつも他者の評判ばかりを気にしている人は、けっして自由ではなく、むしろ後悔に襲われる可能性すら持っています。

よく人生相談などで見かけるパターンです。

青春三部作

夏目漱石の『それから』について少し考えてみましょう。

この作品はいわゆる青春三部作と言われているものです。

『三四郎』『それから』『門』。

この3作が1つのストーリーのようにつながっているところから三部作と呼ばれています。

基本的な命題は自分の宿命とどう向き合うかということです。

宿命に対する逆らい方とそれを突き詰めていった宿命とが前より次第に複雑になっていきます。

主人公は代助といういわゆる親がすべて生活費の面倒をみてくれる高等遊民です。

知識も教養も人並み以上にあって細やかな感情を持っています。

彼は働かないで本を読んだり芝居を観たりしています。

問題はこの代助が三角関係に陥ることです。

平岡というかつての親友とその奥さんと主人公の代助との関係です。

平岡の奥さんになる三千代は仲の良かった共通の友人の妹なのです。

平岡がその女性を好きだという告白を聞いて、代助は2人の仲を取り持ちます。

しかし密かに彼もその友人の妹が好きだったのです。

後に友人夫妻は仕事がうまくいかず、東京に戻って来ます。

再び付き合うようになり、初めて代助は三千代に対する真実の愛を感じます。

それまでは封印してきた感情でした。

当時は姦通罪という重い刑罰もありました。

人の伴侶に向かって愛を告白するというのはよほどのことだったと考えてください。

その時の三千代の言葉も重いものです。

なぜ結婚する前に言ってくれなかったのか。

今になってそれを言うのはあまりにひどいではないかというのです。

平岡と三千代の間には子供ができては、流産したりするという不幸が重なっていました。

代助はその代償として全てを失います。

後悔と自由

親から勘当され、高等遊民の生活を捨てて職を求めるため、今まで最も毛嫌いしていた世間へ飛びだしていくのです。

生活の葛藤の中に出ていくところで、『それから』は終わります。

その後は『門』という作品に繋がるのです。

三角関係に陥った後、代助は非常に悩み続けます。

なぜあの時自分は三千代にきちんと愛を告白しなかったのか、という気持ちが強く出るワケです

これはこの後に書かれた『こころ』にも繋がりますね。

『こころ』では自分の下宿へ連れてきた友達のKと、下宿のお嬢さん、そして自分との三角関係が描かれます。

『それから』の代助はもちろん父親の事業のために、見合い相手を紹介されたりもしています。

しかし親友の夫婦仲が悪くなっていくのを知れば知るほど、自分が自然に振る舞う道を考えざるをえません。

三千代と一緒になるしかないというのが結論なのです。

父親は代助にこう言います。

お前には学問もあり、ちゃんとした判断を下せると思っていた。

それなのになぜこのような子供じみたことをするのだというのです。

そこに代助自身の苦悩があるといってもいいと思います

約束は守るべきであるがゆえに、約束を守るべきであったということを代助はよく知っています。

そのために友人との間をとりもち、善良な人間として生きようとしたのです。

しかしそれはどこまで自分の心に自然であったのか。

そのことを激しく後悔するのです。

自分は道徳心のある人間の仮面をかぶっていただけなのかもしれない。

評判を落としたくないために、義侠心をみせていい人になろうとした。

しかし実際は三千代に対する愛情を断ち切ることができかったのです。

人は時にこういう行動をとるということがあります。

それが実は複雑な内面と絡み合って、後悔となることもあるのです。

なぜかと言えば、それが本来の人間としての道徳の法則に反しているからなのです。

人は後悔することで真の自由を得ることもあります。

あの時にこうすべきであったということが、ではそうしないこともできたという考え方を持つ可能性にも繋がるのです。

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ここに自由の問題の複雑な構造があります。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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