【井上ひさし・つかこうへい】日本の演劇を底からくつがえした男たち

ノート

井上ひさしとつかこうへい

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は2人の演劇人にスポットをあてます。

大好きでした。

この国は大きな劇作家を続けて失いましたね。

今になってしみじみそう思います。

ぼく自身に大きな影響を与えた2人です。

井上ひさしの作品は初期のテアトルエコーの頃から見ています。

熊倉一雄が主宰したユニークな劇団でした。

恵比寿のホールで繰り広げられたどぎついシャレと語呂合わせに打ちのめされましたね。

なんといっても記憶に一番残っているのが『珍訳聖書』です。

ぼくの演劇観を根本からかえました。

小さな頃からずっと芝居は見続けています。

プロフィールを読んでもらうと、そのあたりの事情がよくわかると思います。

演劇と呼べるものではなかったかもしれません。

いわゆるアチャラカ喜劇です。

それでも当時使小学生だったぼくにとっては、世界の全てでした。

まだ20歳になったばかりの伊東四朗なども参加していたのです。

新宿を根城に活躍した石井均は人気者でした。

毎週見ていたのです。

家の前が松竹演芸場でした。

その芝居好きが、後年、井上ひさしにしてやられました。

『珍訳聖書」の本は今でも手元にあります。

新潮社がシリーズで出した劇作集の1冊なのです。

終わらないエンディング

随分ふざけた言い方ですが、これがこの芝居の真骨頂です。

終わらない演劇とでもいったらいいでしょうか。

エンディングだけで何度あったことか。

重層的と言えば、それまでです。

どこまでいっても芝居に終わりがなかったのです。

浅草のレビューや宝塚のような鈴をつけてシャンシャンと鳴らす飾りを目いっぱいに俳優達がもってふりまわします。

舞台に居並び、左右に頭を下げます。

これでラストだと思わせるところから、ストーリーが再び始まるのです

後にこういう作品を入れ籠構造のものだということを知りました。

観客はどこまでつきあったらこの芝居が終わるのかわからなくなります。

そのうち、終わりというものがあるという当たり前のことすら疑い始めるのでした。

それまで知っていたあらゆる既成概念を打ち破るという意味でも、ぼくには画期的な作品でしたね。

その頃、彼は地口と駄ジャレを連発する芝居を書きました。

ほとんど見ています。

その後、こまつ座に軸足をうつした頃から作風は大きく変化しました。

初期の言葉遊びが影をひそめ、より深い人間ドラマになっていきました。

『きらめく星座』『イーハトォーボの劇列車』がなかでもいちばん心に残っています。

銀河系の中で水を含んだこの惑星の中に人間として生まれたこと。

この世に存在するということそのものが奇跡だと呟く、すまけいの横顔を忘れることはできません。

だから人は強く生きなければならないという、井上の強いメッセージがいつも芝居の中にありました。

『劇列車』の中に出てくる思い残しキップにもそれは色濃く反映されています。

その後、仕事のかたわら、演劇鑑賞団体の手伝いをし始めるようになりました。

その一環として、こまつ座の稽古場を何度も訪れたのです。

紀伊国屋ホールなどでのゲネプロにも行きました。

思い出はたくさん残っています。

プロの芝居の作り方というものを目の前でみせてもらったのです。

俳優達が演劇というものをどれほど愛しているのかということも知りました。

貴重な時間だったと思っています。

井上ひさしの文学はずっと残るに違いありません。

彼の芝居はこれからも上演され続けるでしょう。

それだけの足腰の強さを持っています。

時代との関わり

つかこうへいが亡くなってから随分月日がたちました。

この人の作品に出会わなかったら、今の自分はないような気もします。

芝居を観て、これだけ強烈なインパクトを与えられたという経験は今までにありません。

それはどこか遠くで行われているものではなく、まさに同じ時代の同じ時間に起きている現実そのものでした。

それだけに色褪せるのもはやかったのです。

ものすごく毒のある芝居でした。

しかしそれが心地よかったのです。

代表作『熱海殺人事件』は何度も見ています。

しかし時がうつるにつれて、その感覚は微妙にずれていきました。

geralt / Pixabay

最初に紀伊国屋ホールで観た時の衝撃ははかりしれません。

もうあれだけの熱狂がうずまく芝居はないのではないでしょうか。

天井桟敷とも赤テントとも違います。

早稲田小劇場の濃さともまた違うものです。

大袈裟にいえば、こういう風に世界はできているのだと思いました。

あれだけ黒ずんだ台詞を大量に投げつけながら、人間に対する愛情を吐露した芝居をぼくは知りません。

彼が在日韓国人だったことは、今では誰もが知っています。

しかしそれ故の生きづらさという一点に収斂させることには無理があります。

つかこうへいはもっと広く時代の感性を背負っていました。

もう2度とああいう感覚を持つことはできないに違いありません。

今上演しても面白くはないのです。

彼はその後もさまざまなバージョンを練り上げていきました。

しかし初演を超えることはできなかったように思います。

俳優養成

たくさんの俳優を本物にしたという意味で、彼の功績は大きいです。

つかの演出ではじめて育った役者達のなんと多いことでしょうか。

三浦洋一があっと言う間に鬼籍に入り、その後にも数人が続きました。

あの頃のあの熱さはなんだったのか。

懐かしさで胸がいっぱいになります。

当時、活躍した俳優たちもみな年齢を重ねました。

加藤健一、風間杜夫、平田満。

いずれもいい味を持っています。

稽古のたびに台本がどんどんかわっていくという口立ては、俳優にとって怖ろしいものだったようです。

本当の実力がなければ、とても生き残れないという覚悟を彼らに植え付けました。

阿部寛などもつかに鍛え上げられた役者の1人です。

tommyyo123 / Pixabay

そうでなければ、モデルで終わっていたかもしれません。

あの時の熱狂のルーツはなんだったのか。

それが知りたいですね。

あっという間に彼ら2人は消えてしまいました。

その後に続く演劇人にとって、今も大きな壁であることは論を待たないと思います。

鈴木忠志や蜷川幸雄とは全くタイプの違う、芝居の魂を持つ演劇人でした。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました