【日常・コロナ禍】あたりまえのことがいかに貴重かが身に染みる

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あたりまえ

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

毎日、コロナのニュースばかりです。

オリンピックとコロナのニュースを除いたら、何が残るのでしょうか。

2年前に突然始まった世界的なパンデミック。

どんどん形をかえて、ウィルスは猛威をふるっています。

インド型と呼ばれているものなどは、きっと初期のウィルスをあざ笑っているんでしょうね。

日本でもやっとワクチンの接種が始まったばかりです。

認可に信じられないくらい長い時間を要しました。

これで完全に出遅れ、ワクチンそのものが世界からなくなってしまったのです。

慌てて、あっちこっちに手を伸ばし、やっと少しづつ接種も進み始めたというところでしょうか。

ぼくも行政のシステムに従って、ネットで申し込もうとしました。

とんでもありません。

アッという間に一杯になってしまいました。

次回は2週間後ですと言われて、口をあんぐり。

いつになったらワクチン接種が始まるのやらというところです。

職場で同年輩の人に話したら、なんとか予約がとれたのは1人だけでした。

よほどのスピードで打ち込んだのでしょう。

いつも使っているパソコンからなら、同じメールアドレスを2回打つくらいはなんでもありません。

しかし働いている最中ですから、それもできません。

仕方なくスマホでやってみたのです。

ところがアドレスの入力が思うように進みません。

コピペもしにくいです。

半角の隙間を埋めている間に、あえなく撃沈。

予約枠の4000人分くらいは、わずか数分でした。

再びチャレンジ

仕方なく国でやるとかいう大規模接種の会場まで出かけるしかなさそうです。

会場までかなり複雑な経路らしく、テレビで盛んにやっています。

あたりまえの日常を取り戻すことも、今や至難ですね。

遠くまで出かけられない人は、行政のシステムにすがるよりほかに仕方がありません。

来週後半に予定されている第2回目の予約はさてどうなるんでしょうか。

もっといえば、この国全体の人々の接種が完了するのはいつのことなのか。

考えているだけで、気が遠くなります。

毎朝、テレビのニュースでは、新しい感染者数を告げています。

しかしそれはただの数字に過ぎません。

その中には人々の暮らしがあるのです。

みんな事情が違います。

それでも数字は残酷です。

昨日より増えたのか減ったのか。

先週と比べてどうだったのか。

そのすぐ後には交通情報のワクがあります。

新幹線や通勤電車は今朝も通常通り運行されていますと告げているのです。

いつもならだからどうしたの、という気持ちで聞き流しているだけです。

しかし考えてみれば通常通りにものが動くということは大変なことです。

殊に台風の時などは、多くの人が駅や空港で立ち往生したまま、動きがとれません。

あらゆる予定が狂ってしまうのです。

あの大地震の時もそうでした。

いつものようにターミナル駅に向かった生徒の大半が学校に戻ってきました。

何もかもが動かなくなっていたのです。

仕方なく、あの日の夜は学校に泊まりました。

福島や宮城など、被災地の人たちはその状況が今も続いてるのです。

帰れなくなってしまった人のなんと多いことでしょうか。

毎日、当たり前のように暮らしが続いて、そこに笑いや涙がある。

そうした日常がいかに大切なものか。

コロナはその現実をいやというほど、私たちに教えてくれました。

突然の死

死というのは突然そこで時間が止まるということです。

何も進まなくなる。

その人との関連がなくなってしまう。

あとは記憶の世界だけです。

まさにメモリーの中に全てが没入してしまうのです。

川上弘美の短編の中に『花野』という作品があります。

そこには亡くなった叔父さんがでてきます。

突然ふっとあらわれ、叔父さんは何か呟くのです。

しかし彼は自分の意志に反したことを言った時、突然その姿を消してしまいます。

というか世界が自然と薄くなっていくのです。

ぼくたちは考えてみれば、今、世界を薄く切り取りながら生きているのかもしれません。

本当ならあれもしたい、これもしたいと思いながら、どこにも出ていません。

ここ数年、京都や奈良の桜にも出会っていません。

いつもなら毎月ある落語の会もできないままです。

発表する機会もないので、つい稽古もお休みしがちです。

モチベーションは下がる一方です。

かろうじて残っているのが、このブログでしょうか。

毎日1記事を目標に2年間突っ走ってきました。

良寛の1日

良寛をご存知ですね。

江戸時代後期の曹洞宗のお坊さんです。

歌人、書家でもありました。

良寛は1日中、子供たちと手まりをして遊んだと言われています。

なににも束縛されない、昨日と変わりない生活。

そのことの大切さが、身にしみていたのでしょう。

この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

霞立つながき春日に子供らと手鞠つきつつこの日暮らしつ

考えてみれば、人間の暮らしというものは実に単純なことの繰り返しです。

しかしそれを繰り返せるということの中に、本当の幸せがあるのかもしれません。

通常通りにものが動くということのありがたさを、噛みしめなくてはならないのです。

全てが我慢の対象になる昨今、どこへも出かけることができません。

顔をあわせて友人と語り合うこともできなくなりました。

どうしたらいいのでしょうか。

せめて電話やネットでチャットをするしかないのでしょうか。

良寛の逸話にこんなのがあります。

ある日の夕暮れ時、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいました。

自分が隠れる番になったのです。

しかし日が暮れて暗くなり、子供達は家に帰ってしまいました。

翌朝早くある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たのです。

驚いて訊くと良寛は「静かにしなさい。大きな声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったといいます。

とても本当のこととは思えませんね。

しかしこんな話がまことしやかに伝わるほど、彼は人々に親しまれていたのです。

いつもと同じ日常を過ごすことのいかに難しいことか。

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しみじみと考えさせられてしまいます。

今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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