地域格差
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」というコラムについて書きます。
この記事の最後に全文を載せたリンクを貼っておきますので、そちらをお読みください。
副題には知られざる「文化と教育の地域格差」いうタイトルがついています。
筆者は阿部幸大という英米文学研究者です。
東大を卒業した後、フルブライト奨学生としてニューヨーク州立大学の博士課程に在籍しています。
2018年4月、講談社のネットメディアに取り上げられた文章です。
発表当時のまま、いまだにネット上に掲載されています。
それだけ反響が大きかったということなのでしょう。
ある時、この記事をどうしてもチェックしみて欲しいと知人に言われました。
そしてなんとなく読み始めたのです。
感想としては、なるほどそうかもしれないとあらためて思いました。
これは少し以前の頃の話ですが、実感としては現在も変わっていないと思われます。
たまたまどの地域に生まれ、どの高校へ入学したかということで、その後の人生が大きく変わってしまうという現実はまさにその通りでしょう。
書き出しは次の通りです。
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私は高校時代までを、北海道の釧路市で過ごした。(中略)
中卒の母親と小学校中退の父親という両親のもとに生まれ、一人息子を東京の大学に通わせるだけの経済的な余裕がある家庭に育った。(中略)
私が主張したいのは、「貧富の差よりも地域格差のほうが深刻だ」ということではない。
そうではなく、地方には、都市生活者には想像できないであろう、別の大きな障害があるということである。
田舎では貧富にかかわらず、人びとは教育や文化に触れることはできない。
たとえば、書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない。
田舎者は「金がないから諦める」のではなく、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在なのだ。
見たことがないから知らないのである。(中略)
もちろん、文化と教育に無縁の田舎で幸福に暮らすのはいい。
問題なのは、大学レベルの教育を受け、文化的にも豊かな人生を送れたかもしれない田舎の子供たちの多くが、その選択肢さえ与えられないまま生涯を過ごすことを強いられている、ということだ。
知的な刺激
かなりエキセントリックな書き出しです。
少し誇張があるような気もします。
しかし全く事実と異なるというワケではありません。
ぼくにこの記事を読めと勧めてくれた知人も、事情はこの人と同じだったと述懐してくれました。
教育や文化にお金を使うというのはどういうことなのでしょうか。
知的な刺激を受けるためには、成育歴が重い意味を持ちます。
特に親や親戚などがどういう知的経歴をもっているかによって、その意味が変わります。
ここでいうのは学校歴ではありません。
必ずしも上級学校へ進むということだけではないのです。
知的好奇心があり、それを貪欲に自らのもとにしたいとする気持ちがポイントです。
わかりやすく言えば教養や文化意識の差が大きな影響を与えるのです。
家に本がなくても図書館に通うという習慣があれば、それは補えます。
しかし生活に追われていれば、たとえ好奇心があってもなかなかそこまで手が伸びないでしょう。
地方へ行くと、どうしても進学したいというのなら、地元の大学に入ってほしいという親の強い要望を感じます。
学校を続けるにはかなりのお金が必要になります。
場合によれば高校を卒業したらすぐに働いてもらいたいという願いもかなりあります。
地元の専門学校で、手に技術をつけて、資格をとってすぐに社会へ出て欲しいのです。
その呪縛をすり抜けて、都会へ出るということそのことが大イベントなのです。
進路指導の実態
進学指導に関する情報は全て担任や進路部の先生次第というのが、偽らざるところでしょう。
強い影響力をもっているのは間違いありません。
塾へ行けば様々な情報も入ってはきます。
しかし地元の国立大学へ入学することが、最も親の望むルートであることも事実なのです。
親戚に大学への進学者が少ない時、情報はより学校に集約されます。
極端な言い方をすれば、先生次第という面もあるのです。
どういう選択肢があるのかを十分に研究していない先生も多いのが実状です。
インターネットがあるといっても、皮膚感覚とは全く違います。
都市部の高校でも、実体は似ています。
生徒の立場にたちつつ、進路指導を的確にできる教員がうまくリードしてあげないと、完全に思い込みだけで、進学や就職をし、あとで後悔することも多いのです。
その間、親は何をしているのかということも確かにあります。
しかし親が自分の見聞だけで、複雑な進路選択の相談にのることは不可能です。
現在の入試システムを完全に理解できている人はほとんどいないといってもいいでしょう。
自分たちが受験した頃とは、全く事情が異なっています。
ましてや、近くに大学などがなければ、実感が伴いません。
大学に進学しなかった親や親戚に囲まれていれば、そうした選択肢そのものが、目の前に開けていないのです
インターネットの時代になっても、環境が人の人生を左右することに大きな違いはありません。
地方出身者は都市部の大学を目指さなくなっているというより、目指せない状況にあるのです。
そのあたりの様子を実に的確にこの文章は描いています。
今までうまく言えなかったことが、実にみごとに書いてあると知人は言うのです。
そのたびに、人生は運次第だなと感じてしまうのだということのようです。
都市の力
筆者は次のように書いています。
私が東大に入学し、なかば憤慨したのは、東大と同じ駒場東大前駅を最寄り駅とする中高一貫校が存在し、その東大進学率が抜群に高いということだった。
なんという特権階級だろう!
しかも彼らには、自らがその地理的アドバンテージを享受しているという自覚はない。
まさに文化的な貴族である。
この表現には実感があります。
大学の近くにある中高一貫校は誰もが知る受験校です。
毎日、同じ駅でたくさんの大学生を自分の目で見ているという事実が想像以上に重いと考えられます。
学園祭を訪れたり、生協で食事をすることも可能です。
そこで見る風景はいくらインターネットの時代とはいえ、まったく違う性格を持ちます。
身体の中に大学というものの、実質がインプットされていくのです。
当然、入学のためのモチベーションも上がるでしょう。
さらには友人関係から多くの刺激をうけることになります。
環境が理屈を超えるのです。
この差はどうにもなりません。
誰にも埋めることはできないのです。
筆者が感じた違和感はおそらくずっとこれからもついて回ることだろうと思います。
しかしそれをとやかく言ってしまっても仕方がないのです。
つまりはそこまで含めての格差社会が厳然と目の前にあるという事実です。
これだけは否定しようがありません。
無理に埋める必要はないのかもしれないのです。
自分の花を咲かせる場所は自分で探す以外にはありません。
このエッセイにはさまざまなことを考えさせる要素がふんだんに盛り込まれています。
実際、彼をよく知る人が、この後に批判的な文章を公表しました。
それによれば、あまりにも内容が大げさであり、事実はかなりこの記事の内容とは異なるというものです。
機会があれば、それもあわせて読んでみてください。
少しググれば出てくると思われます。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。