歌物語はやわらかい
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。
今回は歌物語をとりあげましょう。
和歌は人の心を和ませます。
柔らかくていいですね。
歌物語といえば、その代表はなんといっても『伊勢物語』。
高校で最初に習う授業の1つがこの「初冠」の段なのです。
読みがちょっと難しいですかね。
「ういこうぶり」と読みます。
旧仮名で書くと「うひかうぶり」です。
この方が味わいがあるかもしれません。
元服の儀式のことをそう呼ぶのです。
子供から大人になる儀式は人生の通過儀礼としてとても大切なものです。
これは今もおんなじかな。
昔は12歳~16歳くらいの間に行われました。
貴族の場合、はじめて冠をかぶるので「初冠」というのです。
女性の場合は12歳~14歳くらい。
こちらは初めて裳をつけるので「裳着」(もぎ)と言います。
「裳」とは女性用の和服の1つです。
十二単を構成する着物のひとつと考えてください。
成人すると、すぐに求婚や結婚が話題にのぼります。
それだけ一生が短かったのです。
少し重い病気になれば、薬も満足になく、死は避けられませんでした。
30歳まで生きられれば十分でしょう。
40歳を迎えられたら大往生というところです。
古希という言葉を御存知ですね。
70歳が古来から稀であったということからこの名がつきました。
それだけ人の一生は短かったのです。
在原業平の物語
伊勢物語は125段からなります。
主人公の「男」が元服を迎えた第1段から、最後の死を迎える125段までで構成されているのです。
平安時代に成立しました。
作者はわかっていません。
多くの段が「昔、男ありけり」で始まります。
モデルは在原業平(ありわらのなりひら)だと言われています。
しかし実在の人物と全てが重なるワケではありません。
この作品はあくまでもフィクションです。
しかしそこに業平の余韻が漂っていれば、それでよかったのでしょう。
実際授業で扱ってみると、どうも1人の人物だけを中心にした話としてはおかしなところも出てきます。
あくまでも仮想的な風景をそこに重ねて読んでいけばいいのではないでしょうか。
在原業平は『源氏物語』の光源氏のモデルになった人物だともいわれています。
そういうイメージで読むと、楽しい気持ちになれます。
映像がきれいですね。
絵画的な風景がたくさん出てきます。
詩情にもあふれています
絵巻にするにはピッタリな物語なのです。
よく知られている話に「東下り」「筒井筒」の段があります。
これも授業で必ずやります。
覚えていますか。
原文
むかし、男初冠して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。
その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。
この男かいまみてけり。
思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。
その男、忍摺りの狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫の摺衣しのぶの乱れ限り知られず
となむ 追ひつきて言ひやりける。
ついでおもしろきことともや思ひけむ。
陸奥の忍ぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。
昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
現代語訳
昔、ある男がおりました。
元服の儀式として初冠をすませ、奈良の都、春日の里の縁ある土地へ、狩をしに行ったのでございます。
その里にとても美しく色香漂う姉妹が住んでおりました。
男はその姉妹を垣根越しにふと覗き見たのです。
すると想像していたよりもはるかに美しい姉妹でした。
古い都には似つかわしくないほど美しかったので、男は気持ちをかき乱されてしまいました。
そこで着ていた狩衣の裾を切って、男は歌を書いて姉妹に送りました。
ちょうど、忍ぶ摺りの乱れ模様の狩衣を着ていたのです。
春日野の若紫の摺り衣の、その乱れた模様のように、私はあなた方のためにこんなにも心乱されてしまいましたよ。
男はすぐにこの歌を贈りました。
この歌を贈るなりゆきが趣深いとでも思ったのでございましょう。
「陸奥の忍ぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」
という河原左大臣源融様がお詠みになった歌の情緒そのものに似せたのです。
陸奥の忍ぶ摺りの乱れ模様のように、こんなにも心乱されたのは誰のせいでしょうか。
それは私のせいではありません。
あなたのために、心乱されたのでございますという意味の歌でした。
昔の人々はこんなふうに、情熱にまかせて風流なふるまいをしたのだそうでございます。
歌が命
作中で引用されているのは河原左大臣源融(822-895)の歌です。
この人も光源氏のモデルとして大変有名な人です。
自分の邸宅に立派な池をめぐらして風流三昧の生活をしたことはよく知られています。
『源氏物語』の中で主人公の光源氏が紫の上をはじめて見るシーンはこの『伊勢物語』を参考にしたそうです。
「若紫」の段の話は以前記事にも書きました。
垣根の向うから幼い少女を見初める、大変に有名な場面です。
最後にリンクを貼っておきましょう。
貴公子の青年の様子が実に初々しいですね。
初めて冠をつけ、成人したという喜びに満ちたある日。
そこに突如として登場する姉妹の様子も艶やかでみごとです。
人生があまりにも短いだけに、出逢いがなおいっそう輝いてみえたのでしょう。
歌をつくるということは、自分の心を相手に見せるということです。
そこで魂の交感がなされるのです。
現代のようにすぐにメールで用事を足すというのはいかにも味気ない気がしますね。
じっと待つことで、相手の人に対する想像力がさらに増すに違いなかったのです。
人のこころはいつの世もかわりません。
この本を読んでいると、1000年以上も前の人々に対する憧憬の気持ちがあふれてきます。
お暇な時に、もう1度チャレンジしてみてください。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。