【身勝手な芸術家なのか】野田秀樹の言葉が胸を打つ【舞台への執念】

ノート

舞台芸術という表現

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今回は新型コロナウィルス蔓延に伴う、舞台公演のほぼ全面的な中止について書きたいと思います。

元々芝居が大好きです。

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以前はある演劇鑑賞団体の役員などもしていました。

舞台公演というものに対する愛着が人一倍あるのです。

それが落語への関心に繋がっているのかもしれません。

照明の中に照らし出される異空間には、今も心躍らされます。

舞台で演じられる公演には何度も接してきました。

鑑賞団体の役員をしていた頃には、本当にたくさんの芝居をみました。

それが高じて、稽古場訪問、ゲネプロ鑑賞などにも発展していったのです。

若い頃から歌舞伎も好きでした。

立見席席での一幕ものなども隋分みました。

さらに最近では能楽に対しても、関心が広がっています。

人間国宝と呼ばれる人たちがどのようにして古典芸能を身体にしみこませていくのかについても興味があります。

笛と鼓の世界はまさにあの能楽堂の空間の中で完結していると思います。

音楽はもちろん、ミュージカルも大好きです。

ブロードウェイでもいくつか舞台を覗くチャンスがありました。

四季だけに限らず東宝のミュージカルや宝塚もみます。

ありとあらゆるジャンルの舞台芸術が好きなのです。

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しかし今年はぼくにとって寂しい年でもありました。

劇作家の別役実さんが亡くなったのです。

早稲田小劇場を率いた鈴木忠志さんが何度も公民館の主催する演劇講座に来てくれたことがあります。

その時、別役さんも一緒にトークセッションに参加してくれました。

別役実の作りだす世界を見たい一心で、文学座のアトリエにも通ったのです。

彼の持つ不条理への執着が皮肉なことに、今現実のものとなっています。

劇作家ベケットの代表作『ゴドーを待ちながら』をイメージして書いた作品が別役さんには多くあります。

ゴドーとは何かという論争が随分ありました。

登場人物の名前に過ぎないんですけどね。

一説によれば、まさにゴッド、神だというのです。

世界はまさに今、ゴドーがあらわれるのを待つ以外にはない手詰まりの状況にあるのかもしれません。

全館休館という現実

今日の新聞に下北沢の本多劇場グループが5月初旬まで全館閉鎖するという記事がありました。

本多劇場といえば、芝居をやる人にとっては聖地です。

本多グループが経営する小劇場が駅前にいくつも点在し、それが芝居の街を形作っていました。

新宿の紀伊国屋か、下北沢の本多劇場か。

どちらかに出られれば、これ以上の幸せはなかったのです。

3月から次第に公演中止が広がり、現在では先の見通しがたたないとのこと。

劇場使用料だけで経営しているので、休館はまさに死活問題です。

エンターテイメントに関わる人たちはほぼ全てがフリーランスです。

その日の仕事がなければ、収入の道は断たれます。

なんの保証もない、いわば浮草暮らしです。

東京都は現金給付などをあれこれと模索しています。

しかし実際に臨時予算を計上し、承認されても手元に現金が届くのはまだかなり先のことでしょう。

国レベルとなると、どこまで本気になっているのかも怪しいのが現実です。

野田秀樹の意見書

劇作家で積極的にこの問題に発言しているのは、平田オリザと野田秀樹です。

2人とも時代にコミットしたテーマの作品が多く、多くの支持者を得ています。

それぞれ全く演劇のスタイルは違いますが、ぼくも好きです。

平田オリザは積極的に演劇メソッドなどの公開をして芝居に対する関心をひろげようと努力しています。

ぼくも一般人向けのシンポジウムなどに参加したことがあります。

野田秀樹は「夢の遊民社」で活躍した頃から、一貫して演劇の本質を見つめ続けてきました。

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そのエネルギーはあらゆるジャンルの舞台芸術にまで及んでいるのです。

亡くなった名優中村勘三郎とのコラボは忘れられません。

彼がつい最近発表した意見書は胸をうつものでした。

全文は載せられませんが、少しだけ紹介させてください。

「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。

スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。

ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。

劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。

現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します」。

この意見書を読んだ時、1番最初に目に飛び込んできたのが「身勝手な芸術家たち」という表現でした。

これがもしかすると、世間の人たちが演劇人を見る時の最大公約数的な意見なのかもしれません。

この国では何かがあった時、真っ先に排除されるものが文化や芸術なのかもしれないのです。

本当に芸術は毎日の生活のために必要なものなのか。

暇つぶしに好きでやってるだけのものを、なぜ保護しなくちゃいけないのか。

そんな道楽に大切な税金を使っている場合じゃない。

後回しにしてもいいんじゃないか。

どこからかそんな声が聞こえてきそうです。

不要不急とはなにか

文化庁という役所はどういうところに補助金を出しているのでしょう。

はっきりしています。

赤字の補填です。

何かを積極的に育てあげていくといった側面はありません。

ドイツとは全く違います。

ドイツは今までもナチスの問題などと真剣に向き合ってきました。

文化は国の顔であり、一朝一夕にはつくれないこと。

伝統を守らなければ、国は成立しないことをよく知っています。

だからこそ、今回のコロナ蔓延に対しても、芸術家たちへの援助を惜しみなくしているのです。

やはり芝居をするのは身勝手なのでしょうか。

フリーランスの演劇人だけが苦しい思いをしているワケではありません。

小規模店主もある意味同じです。

俳優やスタッフたちはただ静かに今の状況を見つめています。

ちなみに落語家たちも事情は全く同じです。

5月の半ばまではほとんどの落語会は中止になりました。

ネットで中継をしている芸人もいますが、今は我慢の時だと心しているようです。

こんなことは今までになかったことです。

1番心配なのは、これがいつまで続くのか、全く先が読めないことなのです。

5月の半ばまでならなんとか持ちこたえられても、もし夏まで続くとなったら、おそらくモチベーションが切れてしまう人もいるでしょう。

今回の補償金をもらったら、今の小規模店舗ははやく切り上げて他の仕事についた方がいいとアドバイスまでしている税理士もいました。

いつまで続くのか。

時間との戦いです。

給付金の成り行きもはっきりしません。

我慢にも限界があります。

それでも芸術家は身勝手なのでしょうか。

文化に携わる仕事には多くの人が関わっています。

好きでやっているのだから、少しくらいの我慢は必要だという段階ではなくなっているのです。

このテーマについてはもう少し考えてみたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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