突然のパンデミック
みなさん、こんにちは。
小論文添削歴20年の元都立高校教師、すい喬です。
今回は「世間」というテーマを考えます。
何それという人は、この概念の難しさがよくわかっていない人です。
毎日の新聞をにぎわしている新型コロナウィルス蔓延のニュース。
今や世界的なパンデミックの様相を呈しています。
外出禁止になった国も多く、渡航制限なども行われています。
2週間の間まったく行動ができず、渡航客たちは自宅やホテルなどに缶詰状態になるという報道もあります。
いまだ治療薬が特定されず、潜伏期間なども含めて、症状が現段階では不明確なままです。
多くの人が集まるテーマパークや遊園地、さらに興行の一斉中止、飲食店の閉鎖なども報道されています。
宿泊施設の営業や旅行の自粛などを含めて、大規模な経済的ロスは日に日に深刻になりつつあるのです。
春休みにあわせて休園した大規模テーマパークなどは、4月まで開業できそうもありません。
一方多くのスポーツイベントも中止、延期になっています。
無観客試合を行った野球のオープン戦、大相撲など誰も想像できなかった事態です。
これらはあくまでも政府の要請に基づいて実施されました。
総理大臣の要請の下、すべてが予定されていたかのように迅速に進みました。
典型的なのは学校の休校です。
ほぼ100%に近い全国の小中高で一斉休校となり、卒業式なども通常とは全く異なる形式で執り行われたのです。
この素早さはなんだったのか。
今回はそこに着目してみます。
キーワードを1つだけ考えてみましょう。
日本の特質と呼ばれる「世間」と呼ばれる構造です。
実は数年前に小論文入試でズバリ「世間と社会の違い」という問題が出題されました。
これはある意味意表をついたテーマでした。
「世間」という言葉
日本人は当たり前のように「それは世間が許さない」というような言い方をします。
世間体が悪いなどという表現もあります。
実際「世間」とは何なのか。
日本は近代化された市民社会だといわれていますが、実態をよくみていくと、必ずしもそう単純な構造ではありません
「世間」は新しい時代感覚とともに消滅していくはずでした。
しかし実際は根深く、社会の底に根を張っています。
そこを鋭く突かれたワケです。
どこからこの問題を切り取っていけばいいのか、試験場で多くの受験生はかなり悩んだはずです。
「世間」という表現には契約では測りきれない曖昧な内実が多く含まれています。
「世間」には個人という概念がありません。
一種の「気」によって成り立っています。
「ムード」といってもいいかもしれません。
自分だけ突出すればかならず叩かれるという前提があります。
だから日本人は集団主義的な方向へ一気にシフトするという考え方もあります。
「世間」から離れると、誰も通常の社会生活を送ることができなくなります。
全ての人々から疎外されるのです。
これは日本人論でよくいわれる「タテマエ」と「ホンネ」の考え方に通じます。
もっといえば「ウチ」と「ソト」の区別です。
このことをきっちりと捉えておきましょう。
もし自分のところだけが突出して興行をしたとしたらどうなるか。
歌舞伎、能、その他の演劇、ミュージカル、ライブコンサート。
どれもすぐバッシングにあうでしょう。
事実、宝塚歌劇団は数日公演をした後、急遽取りやめました。
埼玉のアリーナで6000人以上の観客を集めて行われたK-1の試合には埼玉県知事が現地を訪れ政府首脳の不快発言までに至りました。
SNS上にもかなりの数の非難が寄せられています。
幸い、新型コロナウィルスに感染したというニュースは現在までになされてはいません。
しかし潜伏期間は2週間もあります。
もしここが新しいクラスター発生源になったら、担当者はどのような態度をとればいいのでしょうか。
「ウチ」と「ソト」
「ウチ」の範疇に求められる属性をはみ出し、さらに事故を起こした時の扱いについては、戦時中とほぼ変わらないことが予想されます。
これはある意味、日本人論にも通じる大きなテーマになり得ます。
しかしそこまで書ききるにはかなりの読書量と知識が必要でしょう。
このテーマを自分にあったものとして分析していくのが難しいのです。
どう書いていいのか、かなり迷うことと思います。
こうした場合に必要なのは、なんといっても知識の絶対量です。
日本の歴史や習俗について、社会学的な蓄えがあれば、かなりのことが書けるはずです。
『甘えの構造』『日本人とユダヤ人』『菊と刀』『縮み志向の日本人』『タテ社会の人間関係』など、日本人を扱った本は多くあります。
この中の数冊を読み頭の中に入れておくだけで、かなりの論点を整理できるのではないでしょうか。
日本人の持っている排他性の論理は、容易に説明できません。
なぜこれほどに「世間」というものを重視するのか。
そこに日本人の持っている根本的な心性が宿っているのです。
この問題は「ソト」に対するいじめを当然内側に含みます。
人間の持っている排他性だけでは抑えきれない日本人の特性と考えていいのではないでしょうか。
この視点から、教育問題に発展させていくことも可能です。
いずれにしても自分が持っている論点をどのように整理し発展させていくのかということは大変に厄介なものです。
社会との違い
社会という表現を使った時、そこには明らかに契約の概念が入ります。
市場原理が働くのです。
しかし「世間」にはそれがありません。
簡単にいえば口約束です。
あるいはそれさえもない場合が多いのです。
年功序列のパターンを踏襲しがちなのもその大きな特徴です。
若い者が大きなことをいっても世間では通用しないとなるのです。
日本の社会は古い慣習を長い間ひきずってきました。
それを一時に否定しようとすると。大きな障壁にぶつかり跳ね返されます。
それでも挑もうとすると、いじめが待っているという図式です。
声なき多数としてSNS上などで発言をする時は、かならず背中に「世間」を背負います。
その方が多くの人間の納得を得やすいからなのです。
かつて、水俣病やハンセン病などで苦しんだ人たちの多くは、被害者でありながら、「世間」からは疎んじられました。
二重の疎外にあったワケです。
その声なき声の「世間」こそが、日本を覆っていると考えると、このテーマを自分なりにまとめていくことができるのではないでしょうか。
多分に非合理的であるということを認めつつ、しかし通奏低音のように社会の底を流れ続けているのです。
ここまで「世間」という概念を説明してきました。
切り口をどこにするのかということは自分で考えてみてください。
ある程度の知識がないと、十分には書けません。
参考図書などを覗いてみることも大切です。
勉強を続けてください。
複雑な日本の社会構造を解くキーワードを身につけてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。