「藤原道長の横暴・大鏡」伊周との不仲が赤裸々につづられた歴史書

本

道長の横顔

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

『大鏡』は本当に興味の尽きない本ですね。

歴史物語として異彩を放っています。

特に摂政関白太政大臣、藤原道長の横顔を見事に描いています。

きれいごとだけが書き留められているワケではありません。

権力を手にするためにしてきたあらゆる策略が示されています。

まさに生きた人間がそこに登場しているのです。

現代を生きる私たちとどこもかわりません。

あまりにも生々しすぎますね。

今回は伊周との関係について考えてみましょう。

この文章に出てくる「女院」とは、元天皇の后のことです。

ここでは円融天皇の女御であった「東三条院」を指します。

「藤原兼家」の娘「詮子」のことです。

兼家の子どもとしては「道隆・道兼・道長」が有名ですね。

詮子からみると、「道隆・道兼」は兄で、道長は弟にあたります。

この場面では、関白であった「道隆」が亡くなり、後を継いだ「道兼」も病死し、関白が空席になっています。

道兼の息子である「伊周(これちか)」と、道兼の弟である「道長」とで、どちらが関白を継ぐのかという緊迫した状況です。

血が繋がっているということは、政権奪取のために微妙な関係を生みます。

最悪の場合、兄弟での闘いが繰り広げられるのです。

本文

また、故女院の御石山詣に、この殿は御馬にて、帥殿(そちどの)は車にて参り給ふに、さはる事ありて、粟田口(あはたぐち)より帰り給ふとて、

院の御車のもとに参り給ひて、案内申し給ふに、御車もとどめたれば、轅(ながえ)をおさへて立ち給へるに、入道殿は、御馬をおしかへして、帥殿の御項(うなじ)のもとに、いと近ううち寄せさせ給ひて、

「とく仕うまつれ。日の暮れぬるに」と仰せられければ、あやしく思されて見返り給へれど、おどろきたる御けしきもなく、とみにも退かせ給はで、「日暮れぬ。とくとく」 とそそのかせ給ふを、いみじうやすからず思せど、いかがはせさせ給はむ、やはら立ち退かせ給ひにけり。

父大臣申し給ひければ、「大臣軽むる人のよきやうなし」とのたまはせける。
   
三月巳の日の祓(はらへ)に、やがて逍遥し給ふとて、帥殿、河原にさるべき人々あまた具して出でさせ給へり。

平張(ひらばり)どもあまたうち渡したるおはし所に、入道殿も出でさせ給へる。

御車を近くやれば、「便なきこと。かくなせそ。やりのけよ」と仰せられけるを、なにがし丸といひし御車副(みくるまぞひ)の、「何事のたまふ殿にかあらむ。かく窮し給へれば、この殿は不運にはおはするぞかし。

わざはひや、わざはひや」とて、いたく御車牛をうちて、いま少し平張のもと近くこそ、つかうまつり寄せたりけれ。

「辛うもこの男にいはれぬるかな」とぞ仰せられける。

さて、その御車副をば、いみじうらうたせさせ給ひ、御かへりみありしは。

かやうのことにて、この殿達の御中いと悪しかりき。

注 帥殿 藤原伊周 入道殿 藤原道長

現代語訳

故女院(詮子、一条帝母后)が石山寺に参詣なさるときに、この殿(道長、詮子のお気に入りの弟、当時中宮大夫)は御馬で、帥殿(伊周、当時内大臣)は牛車でお供をなさいましたった。

伊周は差し支えがあって、途中の粟田口から都へお帰りになるというので、女院の牛車のそばにお寄りになって、女院に事情をご説明なさったところ、

女院の牛車も止まったので、伊周は、女院の車のながえを押さえて立っていらっしゃるときのことです。

道長は、御馬で引き返して、伊周のうなじのたいそう近くまでお寄りになって、女院の牛車の供人たちに「はやく車をお出ししろ。日が暮れてしまうぞ」とおっしゃったので、

道長が馬上から、自分よりずっと身分が上である伊周の頭ごしにものを言った事、また、間接的にしろ、伊周に早くどけと言ったことは、極めて失礼なことでした。

伊周はあまりのことだと思い振り返られましたが、道長は動じる気配もなく、すぐにもお引きかえしにならないで、「日が暮れるぞ。早く 早く」と、供人らをせきたてなさったのです。

伊周はひどくおもしろくないとお思いになりましたが、どうなさることもできませんでした。

仕方がないので、不承不承ゆっくりとお立ち退きになったのでした。

伊周が父大臣(道隆、道長の兄、当時関白)にこのことを申しあげると、父大臣は「位の高い者を軽んずるような人間に、将来よいことはあるまい」とおっしゃったのです。

三月の巳の日の祓(はらえ)の時、そのまま川辺を散策なさろうとして、帥殿はしかるべき人々を大勢お連れになって、河原へお出かけになりました。

多くの平張(ひらばり)を張り渡した御座所に、道長もお出ましになったのです。

伊周が乗った牛車を近くへ進ませると、道長は「これは失礼なことだ。そのようなことをしてはいけない。もっと離れて通せ」とおっしゃいました。

すると、なにがし丸という名前の御車副(みくるまぞひ)が、「何をおっしゃる殿なのだろう。こんな考え方をなさっているから、いつまでも運が悪くていらっしゃるのだ。災難だ、災難だ」

と言って、牛車を引く牛を激しく打ち、平張のそばへ、わざと近づくように車を進めたのです。

入道殿は「この男に手痛いことを言われてしまったな」とおっしゃいました。

しかし道長が内心思っていた通り、伊周に無礼をはたらいてくれたのが気にいったのでしょう。

これ以降、その御車副のことを、たいそうかわいがり、特別に目をかけたということです。

帥殿と入道殿の仲はたいそう悪くなる一方でした。

複雑な人間関係

この場面の人間関係をもう一度チェックしてみましょう。

入道殿(道長)は帥殿(伊周)に対して威圧的な態度をとる人物として描かれています。

その一方で帥殿(伊周)は道長から侮辱的な扱いを受け、屈辱を感じています。

この2人の関係はかなりの緊張状態にあるのがよくわかりますね。

その様子を象徴しているのが弓比べのシーンです。

道長は、競弓で伊周を圧倒しました。

結果が気にいらない伊周の周辺からは延長戦が仕組まれます。

その時、道長は「自分の家から天皇や皇后がお立ちになるべきなら、この矢よ当たれ」
と叫びながら、的にあててしまうのです。

その後、弓をひいた伊周は矢をはずしてしまいました。

道長は「自分が摂政、関白になるべきなら、この矢よ当たれ」と言って、再び命中させてしまいます。

さすがにそれを見ていた父の道隆は息子に恥をかかせたくなかったのでしょう。

競弓をやめさせました。

これ以降、道隆が43歳で急逝したことから、両者の関係がさらにねじれたものになっていったのです。

伊周と道長

道隆の死によって、後継者に躍り出たのが伊周です。

伊周は道隆にとっては3男です。

しかし、正妻との間に生まれた長男でもありました。

伊周自身も、そのことを深く理解していました。

しかし世の中は、そう簡単にはいきません。

彼の目の前にあらわれたのが道長です。

今回取り上げた文章を読むと、道長が伊周を繰り返し侮辱している様子がよくわかります。

むしろ相手の怒りをうまく利用しようとさえしているかのようにも見えます。

最後のところに出てきた道長の従者の皮肉をどう受け止めたのかが、わかりますか。

後にはむしろ目をかけてやったのです。

道長は伊周の平張の近くを通り過ぎようとしたことを、さすがにまずいと思ったのでしょう。

まさに表面的には遠慮したから、「もっと離れて通れ」と言ったのです。

その瞬間、従者は「これだからうちの殿様はダメなんだ」と呟いてどんどん車を伊周のそばまで寄せてしまいました。

その結果、困り果てたのは道長です。

「窮した」などという表現が飛び出てきた理由はそこにあります。

しかし表面では咎めながら、内心ではその御車副が自分の思った通りにやってくれたと快哉を叫んでもいたのです。

まさに人物間の力関係や微妙な対立が出ていますね。

この後、伊周は花山法皇に矢を射かける事件を起こし、大宰権帥に左遷され失脚していくことになったのです。

政治の世界は一寸先は闇です。

それが如実にあらわれたのがこの事件でした。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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